難病少年が歩んだ人生 父手作りの笛がくれた生き甲斐

静岡県浜松市にある舘山寺サゴーロイヤルホテル。
ここの売店にある風変わりな笛が売られている。
プラスチック製の小さな笛。
実はこのホテルでしか売っていない物だという。
今から12年前に、ホテルで演奏していたミュージシャンが吹いていたことから、ここで売っているという。
笛はめったに売れない。
しかし、どんなに売れなくてもずっと置いていきたいと、ホテルの支配人は考えていた。
あまり売れなくてもずっと置かれ続けている笛。
そこには、支配人が伝え続けたいと願う、今は亡き少年の想い、そして家族の想いがあった。

今から43年前、茨城県で暮らしていた中山夫妻。
「ター坊」の愛称で可愛がられた長男・卓也を筆頭に、次男・秀己、長女・明子と、3人の子供に恵まれ、何不自由ない幸せな毎日を過ごしていた。
だが、この年のある日…長男・卓也の「よく転ぶ」姿に両親は違和感を覚えた。
心配した両親は卓也を大学病院に連れて行き、検査を受けさせた。
そして…信じがたい事実を突きつけられる。

筋ジストロフィー。
筋肉の成長に不可欠なタンパク質に異常が起こることで、全身の筋肉が徐々に衰え、運動ができなくなる難病である。
現在でも治療法はない。
さらに…次第に呼吸する筋肉も衰え、最後は心臓の筋肉も動かなくなり、あと10年生きられるかどうかだというのだ。
4歳の子供に余命10年。
あまりに残酷な宣告だった。

この事実を家族はどう受け止めたのか?
卓也さんの父・直己さんに話を伺うことができた。
「奈落の底に突き落とされる感じだった。家内の方がショックが大きくて、泣き出してしまって、それを必死になだめるのが精一杯だった。下の子はまだ3歳と2歳だったので、あまりにも小さかったので、ター坊が病気だとは言わなかった。」

治療法がないため入院はせず、自宅で生活を続けた卓也。
両親は小学校に入学しても、病名は告げず、他の子と同じように学校に通わせた。
しかし、病気が判明してから6年が経った頃…指先の筋力が落ち、物がつかみにくくなり、足の筋力も低下…うまく歩けなくなっていった。
そのため、この年から車椅子生活へ。
さらに、1人ではトイレも困難になり、特別支援学級で学ぶことになった。

そしてこの時、両親は病気についてはじめて本人に伝えた。
これからの生活は軽い訓練をやっていけば大丈夫だからと、慰めるような安心するような説明をしたという。
学校では、弟と妹が交代で休み時間に卓也の手伝いをしていた。
そして友達も…特別支援学級に移動した際、同級生には学校側から病気の事が伝えられていたがクラスが変わっても、みんな卓也を気にかけてくれた。

卓也の卒業文集には、こんな言葉が綴られていた。
「一番楽しかったのは、塩先生に車椅子を押してもらって、みんなと持久走に出られたことです。それにたくさんの友達が僕の車椅子を押してくれました。先生方、友達のみなさん、お世話になって本当にありがとうございます。」
小学校を卒業した卓也は、少しずつ出来ないことが増えていったため、養護学校へ進学することになった。
弟妹たちは、その時はじめて病名を知らされた。

休日には家族で出かけ、色々な思い出を作っていった中山一家。
そんな中、家族みんなで夢中になれるものがあった。
それは…楽器演奏。
実は、両親の出会いは大学の軽音楽部。
結婚後も自宅でよく演奏しており、子供達も見よう見まねで楽器に触れていた。

メロディーを奏でる楽器に夢中な弟妹たち。
しかし、卓也は…指先に力が入らず、複雑な楽器を弾くことはできなかった。
扱えるのは、腕だけで演奏できる打楽器だけ。
それでも、卓也は演奏を楽しんでいた。
卓也が演奏していたのは、キューバ発祥の打楽器・ボンゴ。
学校から帰ると、毎日、この楽器の虜になった。
当時を振り返り直己さんは、こう話してくれた。
「練習が終わると必ず言うんですよ。楽しかったってね。彼にとって音楽はなくてはならないものだと確信する瞬間でした。」

そして、卓也が12歳の時、なんと中山家はファミリーバンドを結成!
バンド名は「ファニーボンゴ」。
いつも卓也が面白そうにボンゴを演奏していることから、父・直己がそう名付けた。
家族で盲学校や、障害者施設で演奏をして、音楽はますます卓也の生きがいになっていた。
ずっとみんなで演奏できたらどんなに幸せか。
そう願っていたのだが…だんだんスティックが上手く持てなくなってきていた。

病が進行すれば、いずれ演奏できなくなるかもしれない…
そんな中、両親は楽器店を巡り、何かを探し始めた。
しかし、なかなか探しているものは見つからない。
そして、ないなら作ってしまえば良いと、父・直己は何かを作り始めた。
作業はおよそ1年にもおよんだ。

そして卓也が13歳の誕生日を迎えた夏頃…ついに完成した。
それは…卓也のための楽器、ワンダリードだった。
直己さんは、他の子がメロディー楽器を上手にやっているのを見て、卓也が自分もやりたいと思っているのをヒシヒシと感じていた。
そして、スティックをを落とすようになり、ボンゴだけをずっとやるのは難しいと感じ、何か新しい楽器を作ろうと思ったのだという。
卓也は口だけはちゃんと動く、筋力もかなりある、そのため、口だけで吹ける笛を作ったのだ。
ワンダリードは、強く噛めば高音、弱く噛めば低音、唇の動きだけでメロディーが奏でられる。
こうして、ワンダリードを手にいれた卓也は、毎日、練習を重ねた。

実際にファニーボンゴのライブで、卓也がワンダリードを吹いている音源が残されている。
それを改めて聞いた直己さんは、こう話してくれた。
「素晴らしいですね。卓也はここまでワンダリードを楽しく吹いたんだと思って、ぐっとこみ上げてくるものがありますね。」

そして、卓也がワンダリードを吹いている姿を見て…
「障害者の方が世の中にはたくさんいる、この笛を欲しがるので広めたらどうだ」という声がすごく増えてきたという。
そこで、ワンダリードをたくさん作り、販売してみることにした。
すると、新聞が取り上げ、徐々に世間に広まっていった。
これをきっかけにファニーボンゴは、あるイベントに招待された。

1984年、仙台で行われた「われら人間コンサート」。
様々な障害に苦しみながらも、音楽を愛する人たちが一同に会し、演奏を披露するという催しだった。
卓也と同じ、筋ジストロフィーを患う目時忠男(めときただお)さんが、「ワンダリード」を手にし、その音色に感動。
一緒に演奏したいと誘ってくれたのが、きっかけだった。
この時、卓也はボンゴを、目時さんがワンダリードを披露している。
大舞台を見事、やりきった卓也。

そんな頃だった。
卓也が1人でアイスを買いに行くと言い張った。
無事、買い物を終えた卓也は、買ってきたアイスを母親と半分こして一緒に食べた。
誰かに頼らず、自分で買いに行く…それは彼にとって親孝行のようなものだったのかもしれない。
そして、母親にこう言ったのだ。
「いつも重たい僕を運んでくれてありがとう。」

しかし…医師の余命宣告から10年が過ぎようとしていた。
筋肉の衰えは心臓にまで及び、治療は通院から入院に切り替えられた。
そして、入院から1ヶ月後の12月31日。
一時帰宅が認められた卓也は、自宅で家族と共に年を越すことになった。
その期間は、1月2日までの3日間だけ…

そして、瞬く間に時は過ぎ…病院へ戻る1月2日に。
卓也は両親に「僕、今が一番幸せだよ」と言ったのだ。
病院に戻る前に家族写真を撮ることにした。
母の肩にそっともたれかかった卓也は、穏やかな表情をしていた。

その1ヶ月後…
両親に見守られながら、卓也は静かに息を引き取った。
享年14。
病室の枕元には、いつもワンダリードが置かれていた。
そして亡くなる直前…卓也がいちばん好きな曲、「もしも明日が」をカセットテープで流したところ、音楽に合わせて口を動かしていたという。
直己さんは「最後に音楽があってとても良かったと思う」と話してくれた。

生前、卓也は両親にこのようなことを話していた。
「手が動く、足が動く、目が見える、耳が聞こえる、自分の頭で考えることができる。当たり前なんかじゃないよね。奇跡だよね。自転車に乗ったり、かけっこしたり、ピアノが弾けたり、それができるなんてすごいことだよね。でも、みんな当たり前だと思っているよ。当たり前だと思うから、欲張りになっちゃうんだ。すごいことだよね。」

卓也さんの死後もファニーボンゴは活動を続けた。
ライブ会場のほとんどは、障害者施設や盲学校だった。
家族で話し合い、卓也さんが好きだったワンダリードを普及させたい…
卓也さんの想いを受け継いでこれからもファニーボンゴをやっていこうということになったのだという。

その後、英己さんが独立し、明子さんは結婚。
みんなで演奏することはなくなったが…父・直己さんは仕事の合間をみつけ、今なお、老人ホームやホテルなどでライブを行っている。
その際は必ず、ワンダリードを演奏しているのだ。

実は、「ワンダリード」を唯一置いているサゴーロイヤルホテルも、12年前に、直己さんがここで演奏したことが販売のきっかけだったという。
ホテルの支配人は演奏を聞いて、「この笛を売店で売らせてくださいとその場で申し込んだ」という。
直己さんは最後にこう話してくれた。
「これを作って良かったと思うけど、卓也のためにつくったので、常に卓也のことがセットで出てくる。障害者の方が吹いていると、卓也のおかげでこの笛が生まれてよかったなと…必ず卓也が登場する。いつも横に卓也がいる感じです。」

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