心から戦争を憎む あるアメリカ人の信念

これは原爆投下から4年後の広島市の風景。
焼け野原だった街にバラックの家が建ち始めていたものの、復興には程遠い状況だった。
そんな中、アメリカの民間人が起こした驚きの行動。
そこには、ある男の揺るぎない信念があった。

アメリカ・カンザス州の農場に生まれた、フロイド・シュモー。
シュモーは、両親からの命の大切さを教えられて育った。

戦争ごっこで遊ぶシュモーに、母はこう言っていた。
「そんな遊びやめなさい。人の命はなによりも大切なものよ、戦争はそれを一瞬で奪ってしまうの、わかった?」

シュモーが19歳の時、第一次世界大戦が勃発。
彼は母の教えから、銃を持たない部署を希望、後方支援に回っていたのだが…戦場では、銃を持っていようがいまいが、常に死の恐怖と隣り合わせだった。
そんな中でシュモーは、心から戦争を憎むようになっていった。

第一次世界大戦が終わると、高校の同級生だったルスと結婚。
森に囲まれた農場で育った経験から、森林生物学者としてワシントン大学で講師の職も得た。

だが、彼の運命を変える大きな出来事が起きる。
1941年、太平洋戦争が勃発したのだ。
そして大学内では、日系職員や学生の連行が始まった。
彼らには、アメリカ西海岸からの退去命令が下され、従わない者は収容所に強制的に送還された。
シュモーは日系人の強制収容ついて抗議したが、相手にされなかった。

シュモーは、自ら大学を退職した。
そして、新たに日系人の支援団体に就職。
当時、西海岸を離れれば強制収容を免れることができたため、アメリカ中東部で日系人を受け入れてくれる職場や学校を探した。

また、自然に囲まれて育ったシュモーは、大工仕事が得意だった。
彼は主を失い、略奪や破壊にあっていた日系人の住宅の一軒一軒を修復して回った。
さらに、強制収容所を慰問し、希望を失いつつある日系人を慰めた。

そんな活動が3年続いたある日…広島に原子爆弾が投下された。
1945年 8月6日、午前8時15分、アメリカ軍のB29爆撃機から投下された原爆は、広島市の上空で炸裂。
爆心地周辺の地表温度は、4000度に達したとされている。
熱線や熱風、放射能で10万以上の命が一瞬にして奪われ、街は焼け野原と化した。

大統領は、原爆投下には戦争を早く終わらせる効果があるだろうと演説。
その言葉通り、9日後に日本が降伏。
アメリカは祝賀ムードに包まれていた。
だが…「どんな理由があろうと、10万人もの人々が犠牲になっていいはずがない」…シュモーはある決断をした。

それは…広島に家を建てるというものだった。
そして、そのための寄付を募ったが、人々の理解は得られなかった。
そこでシュモーは、アメリカ政府や軍、日本の牧師や広島市長などに手紙を書き、広島に家を建てることの意義を伝え続けた。

救援物資を送った日本の青年への手紙には、こう書かれていた。
『この家は、単に戦争中に焼失した何百万もの家の中の一軒に代わるだけのものというのではなく、わたしたちの想いのしるし、象徴となるはずです。』
『私たちの愛の家は広島のためのものです。』

さらに、建築資金を集めるために、毎日、募金活動を続けた。
すると、小さな子供が「お家がないと可哀想だから」と、募金をしてくれたのだ。
やはり自分は間違っていない、その思いを胸にシュモーは人が集まる場所ならどこにでも足を運んだ。
少しづつ賛同する仲間も増えていった。

活動を始めて4年、集まった募金額は4000ドル。
現代の価格にして、1400万円にのぼった。

そして、原爆投下から4年後の8月。
広島の地にシュモーたちの姿があった。
粘り強い交渉が実を結び、アメリカ軍が渡航を許可。
同時に広島市も、彼らに土地を提供したのだ。

建築には、彼らに賛同した日本の学生も参加。
日本人大工も1人加わり、日本家屋2棟の完成を目指した。
そして、建築現場にたてられた看板には英語で建設の理念が書き込まれていた。
『共に家を建て 互いに理解を深めることで平和が訪れますように』

ついに家作りが始まった。
市内の教会に寝泊まりしながら、週に6日の作業。
54歳のシュモー本人も、若者と同じ量の仕事をこなした。

だが、ときには「原爆を落としたアメリカ人め!家族を返せ!」と罵声を浴びせられることもあった。
それでも、どんなことを言われようと、今できることを精一杯やるしかなかった。

やがて、地元の人々が作業を手伝ってくれるようになっていった。
誰もがシュモーの家の完成を待っていた。
そして、4人の外国人が日本に来て2ヶ月後、ついに2棟の家が完成したのだ!

無謀と言われたシュモーの思いが実現した瞬間だった。
家は広島市に寄贈され、くじ引きで入居者が決められた。
名称は、地名にちなんで『みなみ平和住宅』となった。

シュモーの本当の夢は、家を建てることではなかった。
シュモーは原爆を落としたアメリカ人としてずっと心を痛めてきた。
少しでも日本のみんなの役に立ちたいと思っていた。
そして今、日本人とアメリカ人が一緒に家を建て、手を取り合って笑顔でいる…人種、国籍を超えて手をとりあう姿、それこそがシュモーが本当に望んだものだった。

シュモーたちは、翌年からも4年続けて来日。
広島に21軒の家を建てたあと、長崎にも多くの家を建築。
残念ながら、その家の多くは老朽化のため、現在は取り壊されている。

だが、広島に一軒だけ現存するものがある。
『シュモーハウス』と名付けられた家、当時の壁がそのままの状態で一部だけ残されている。

現在はシュモーの功績を伝える資料館となっている。
実は彼は生前、みんなで建てた家だからという理由で、自分の名前をつけることを拒否していた。
そのため、シュモーの功績を知る者は広島でもまだ少ない。
しかし、彼のことを忘れないためにと、あえて市民たちがその名を残し、資料館にしたのだ。

その後、シュモーは朝鮮戦争後の韓国にも家を建て、アメリカの原爆実験を非難。
エジプトに渡り、難民救助活動も行った。
その功績を称え、日本政府は1982年に勲章を授与。
翌年には、広島市特別栄誉市民になった。

その後、平和活動家に贈られる谷本清平和賞を受賞すると、賞金は全て、自身の信じる平和活動に費やしたという。
そして16年前、105歳でその生涯を閉じた。平和への思いを貫き通した人生だった。

広島市にある、広島平和記念資料館。
今年の春、リニューアルを機にこれまでほとんど語られることのなかったシュモーさんの功績が、ついに展示されるようになった。
昨年には、『シュモーおじさん』という絵本も出版されている。

また市内の幼稚園や小中学校では、4年前から紙芝居などでシュモーさんの話を伝え始めているという。
紙芝居を見た子供の感想は…「戦争のない世界になってほしいというシュモーさんの夢をかなえてあげたいです。」
シュモーさんの思いは、確かな形で未来につながっている。

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