娘の命を救いたい 素人夫婦が医療器具の開発に挑む

この日、胸の息苦しさを訴え、一人の女性が病院に緊急搬送された。
病名は急性心不全。
弱った心臓を補助するため、直ちにある医療器具が使用された。
その結果…女性は一命を取り留めた。

女性の命を救った、ある医療器具。
それは、過去30年間で、実に12万人を救ったという画期的なものだった。
実は、この器具を日本で初めて開発したのは、医学においては全くの素人だった一組の夫婦だった。
多くの人の命を救う奇跡の医療器具。
そこには、娘を救いたいと願った両親の壮絶な物語があった。

今から40年前。
筒井宣政さんは、愛知県でストローやパイプといった、プラスチック樹脂の加工製品を作る小さな町工場を営んでいた。
3人の娘たちと送る、笑顔の絶えない生活。
だが夫婦には、ひとつだけ不安の種が…次女の佳美さんには、生まれつき心臓に疾患があったのだ。
精密検査に耐えられる身体になるまで成長を待ち、9歳の時、ようやく判明した病名は…三尖弁閉鎖症。

本来心臓は、全身から戻ってきた酸素の少ない血液を肺へと送り出し、そこで酸素を取り入れ、再び全身に行き渡らせている。
だが佳美さんの心臓は、先天的に三尖弁という弁が閉じているうえ、左右の壁に穴が空いていた。
血液が正常に流れない状態が長く続けば、やがて他の臓器にも異常をきたし、様々な合併症を引き起こすという難病だった。

医師によれば…手術の成功率は1%以下。
仮に手術ができたとしても、人工血管や人工弁を使用する必要があり、それらの人工物は1~2年の耐久性しかない。
手術をしなければ、佳美さんの心臓はあと10年は持つという。
だがそれは、余命10年の宣告に等しかった。

筒井さんは手術を断念…大事に心臓を温存して、10年なんとか一緒に過ごしたいと思った。
そんなある日、妻・陽子さんから「あのお金 寄付したらどうかと思うの」という提案があった。

実は二人は、佳美さんが心臓病だと分かった時から、治療費として2000万円以上の資金を貯めていた。
心臓の研究が進めば、佳美さんの病気も治せるようになるかもしれない…その研究のために寄付をしてはどうかというのだ。
そして、この寄付という思い付きが、やがて夫婦を思いがけない方向へつき動かしていく。

二人は、佳美さんを診てもらっていた、東京の大学病院の教授に相談。
すると…教授から、人工心臓の研究をしてみないかという提案を受けた。
人工心臓とは弱った心臓のかわりに、血液を体内に循環させるポンプの機能を担う医療機器である。
当時、アメリカでは実用化されたばかりで、日本でもようやく研究が始まった段階だった。
しかも当時の人工心臓は、持ってせいぜい1~2年。
一生、付け続けられる物ではなかった。



実は、二人が相談をもちかけた教授は、人工心臓を何年も研究しており、教授が研究に協力してくれるというのだ。
そして、今まで二人は佳美さんのために相当勉強をしてきた…10年研究を続ければ、佳美さんを救える理想的な人工心臓を作れるかもしれないという。
筒井さん夫婦は、少しでも可能性があるなら、やってみようと決意した。
医療とはかけ離れた世界に生きてきた二人が、娘のために壮大な賭けに出た瞬間だった。

余命宣告を受けた翌年、娘のために人工心臓の開発を決意した筒井さん。
以来、彼は誰よりも早く工場に出勤し働いた。
全ては、時間を捻出するため。
工場の一角に自作の研究室を設け、人工心臓の研究を始めたのだ。

とは言え、全くの素人である…自宅のある名古屋から東京の大学病院へ通っては、心臓の医療機器の知識を一から教わった。
最適な素材を探すため、専門家の研究会にも出席。

そして、研究を始めてから3年。
ようやく筒井さんは、試作段階までこぎつけた。
だが、そこには想像以上のハードルが…人工心臓を作るには、元になる金型に素材となる特殊な樹脂をコーティング、樹脂が固まったら型から外し、形にしていく。
だが、金型をひとつ作るにも掛かる費用は200万円以上。
しかもサイズを変えて、何個も作り試す必要がある。
さらに樹脂に不純物が混ざらないよう、工場内に塵や細菌を遮断したクリーンルームを作ったり…
人工心臓に取り付ける、アメリカ製の医療部品を輸入したりと、予想をはるかに超える経費がかかった。
やがて、貯めていた2000万円はおろか、自らの貯金も殆ど使い果たし、瞬く間に資金は底をついた。

そこで…筒井さんは銀行に融資を申請したのだが…バブル間近で、好景気の時代、製品化のメドすら立たない人工心臓に、融資してくれる銀行など1つも無かった。
そんなある日、投資会社の関係者が訪ねてきて、会社を設立しないかと提案をしてくれた。
人工心臓の開発は、個人で出来ることではない…会社組織にすれば、国から公的融資や補助金が受けられるというのだ。

こうして筒井さんは、工場の敷地内に医療器具製造会社、東海メディカルプロダクツを設立。
これで何とか開発資金を捻出できるようにはなったのだが…その後も試作品は失敗続き。
いつしか開発を初めて7年の月日が流れていた。

そんな中で、唯一の救いは…佳美さんが高校に進学できたことだった。
だが、余命10年と言われた命の期限まで、あと2年に迫っていた。
そしてこの頃には、筒井さんが作った人工心臓は、ようやく動物実験の段階にこぎ着けていた。

だが…またしても、お金という壁が立ちはだかった。
人工心臓のような新しい医療機器を開発する場合、医療機関の協力のもと、少なくとも約100頭の動物実験と60人の臨床試験を行わなければ、厚生省の認可を得る事ができない。
実験は数年間かけて行われ、その間、施設の維持費がかかる。

また経過を常に観察する必要があるため、獣医や医師を常勤で雇わねばならず、人件費なども合わせると、数十億円にのぼることが判明したのだ。
それは、医師とはいえ医療機器など開発したことがない教授も知らない事実だった。

さらに、恐れていたことが起こった。
佳美さんが心臓疾患から来る合併症を引き起こしたのだ。
佳美さんは長年に渡る心臓の病で、他の臓器にも深刻なダメージを負っていた。
たとえ人工心臓が完成しても、もはや完治は不可能な程、佳美さんの症状は悪化していたのだ。

その後、佳美さんは退院できたものの…人工心臓の開発が間に合わなかったという事実を、筒井さんは娘に告げることが出来ずにいた。
だが、そのことを佳美さんは分かっていた。
そして、筒井さんにこう言ったのだ。
「私のために8年も頑張ってくれた。それだけで私は十分だよ。これからはその知識を、苦しんでいる人たちのために使って。」

娘を救いたい一心で続けてきた人工心臓の開発を、断念した筒井さん。
しかし、佳美さんの願いを叶えるためにも、これまでの研究を生かしたいと思っていた。
だが…その術を見つけられずにいた。

そんなある日、筒井さんは人工心臓の研究に打ち込んでいた時に知り合った、医療機器メーカーの社員からある事実を知らされる。
最近、バルーンカテーテルの事故が多いというのだ。

バルーンカテーテルとは、カテーテルと呼ばれる管の先端に、ごく細長い風船がついた医療器具。
管を血管に通し、ヘリウムガスによって風船を拡張・収縮させることで、滞っていた血液の流れを促進させる。
心筋梗塞や狭心症などで弱った心臓の働きを補助するためのモノだった。
当時、使われていたのは、すべて輸入品。
しかしバルーンが動脈を塞いでしまったり、破れてガスが漏れたり、といった事例が数多く報告されていた。

バルーンカテーテルは人工心臓と違い、すでに国内で使用されている。
改良ということであれば、開発費用は大幅に抑えられる上に、動物実験も数多くこなす必要はない。

しかも…バルーンの部分は、元となる金型に特殊な素材をコーティング、それを乾かし固めることで形を作る。
作り方は、人工心臓とほぼ同じであり、これまで培った技術や知識を活かせる可能性があった。
筒井さんは、これしかないと思った。

筒井さんは、教授に相談をしたのだが、教授はそれに反対。
なぜなら…血管の中で膨らむバルーンは50ミクロンの厚さを均一に保たなければならない。
そして、心臓の拍動を助けるために、0.4気圧の圧力をかけても破れないだけの耐久性も必要なのだ。
今の日本にはそれだけの物を作る技術がない…開発の難しさは人工心臓を作るのに勝るとも劣らないという。

それでも筒井さんは、日本初の国産バルーンカテーテルの開発を目指し、再び研究を始めた。
だが…樹脂を金型から剥がす際に使う溶媒液は、非常に水分を吸収しやすい。
水分を少しでも含んだ状態で使用すると、樹脂の強度が落ちてしまう。
この溶媒液の問題が最大の課題だった。
そこで、実験室にビニール製のテントを張り…除湿器を使って湿度ゼロに近い状況を作り上げ、その中で、溶媒液を使用した。
直ちに樹脂をドライヤーで乾かす必要があるため、テントの中は40度に達した。

1987年3月、高校を卒業した佳美さんが、東海メディカルプロダクツに入社。
この時、佳美さんは19歳。
とうとう命の期限と言われた、10年目を迎えていた。

どんな患者にも安心して使えるバルーンカテーテルを開発する。
新たな夢に向け、筒井さんは進み続けた。
溶媒液の問題は、簡単にクリアすることは出来ない。
試作品は、既に500を超えていた。
何とか、バルーンが形になっても…穴があいてしまう。
納得のいく物ができるまで、何度でも実験を重ねた。

そして、開発を始めてから1年半。
ようやく0.4気圧の圧力に耐えうる、試作品が完成した!
次なる課題は、厚生省の認可。
審査に合格するには、症例数は少なくても、動物実験や臨床試験を行う必要がある。
それには、医療機関に協力を仰がなければならなかった。
筒井さんは、教授に協力を頼み、実験結果を教授に伝えたのだが…教授は、その試験を再度やるように指示をだした。

他に協力を頼める教授はいない。
筒井さんは筒井は何としても教授に納得してもらうため、すでに行っていた0.4気圧で2万回行う耐久試験を、倍以上の5万回行った。
その上、更なる気圧にも耐えるテストを幾度も実施、決して破裂しないカテーテルを目指し、改良を重ねた。
娘のためにも、バルーンカテーテルの完成は絶対に諦めたくなかった。

そして、数カ月後…改良を重ねたものを教授に見せた。
しかし、教授は筒井さんのカテーテルは、実績が何もないため安心して使えないというのだ!
臨床試験で、万一何か問題が起これば教授自身にも傷がつく可能性がある。
彼は実績がないという理由をつけ、1度も試そうとしなかった。

しかも、他に持っていったところで、よそで断られたものは、欠陥があるからだと決め付けられてしまう。
そもそも当時は、協力を依頼した研究機関を変更すること自体がタブーとされていた。
筒井さんは、教授に検討してもらえるように、何度も足を運び頼み込んだ。
だが…ついに出入り禁止となってしまったのだ。

そんなある日…佳美さんが倒れてしまった!
医師から宣告された10年が過ぎ、彼女の体はいよいよ悲鳴を上げ始めていた。
筒井さんが病室に駆けつけると…佳美さんは病室で勉強をしていた。
バルールンカテーテルを作るなら、品質管理のために衛生管理者が必要になる…そのための資格を取りたいというのだ。

いつでも前向きに生きようとする娘の姿が、父を突き動かす。
筒井さんは教授にもう一度会いに行き、ある提案をした。
それは、バルーンカテーテルの開発を教室の研究テーマにしないかというものだった。

輸入品のバルーンカテーテルは、合併症が多い、それは使える製品が1種類しかないからではないか。
人種が違えば体格も違う…日本人は欧米人に比べて身体が小さいのは明らか。
輸入品のバルーンカテーテルは、多くの日本人に合っていないのでないか?
日本人の体に合わないバルーンカテーテルを使用する事によって、本来、触れてはいけない動脈に接触、血行障害を引き起こし合併症や事故に繋がっているのではないか? 筒井さんはそう考えた。
実は日本の医師たちもその可能性について気づいてはいたが、これまで誰もデータを取ったことがなく、確信が持てずにいたのだ。

そして筒井さんが教授にこの提案をしたのには、理由があった。
実は…大学病院は、医師を養成する教育機関でもある。
当時、心臓外科は志望者も多く、若い医師たちは論文のテーマに苦労していたのだ。
すると、吉岡行雄医師がこの研究をやりたいと名乗りを上げてくれた。

吉岡医師という共同研究者を得た筒井さんは、そこから51人もの患者の身長や体重、血管の長さのデータを集めた。
そして…身長や体重と血管の長さには、確かな相関関係があることが裏付けられたのだ。
その後、吉岡医師とともに研究を重ねた筒井さんは、日本人の子どもから大人までどんな人にも対応できるように、3種類のバルーンカテーテルを開発。

それだけではない。
吉岡の協力の元、動物実験や臨床試験も行った。
結果はもちろん、動物、人ともに異常なし。
こうして人工心臓の断念から2年。
ついに、国産のバルーンカテーテルでは初めて、厚生省の認可を取得したのだ。

そして…実際の手術でも使用され、筒井さんのバルーンカテーテルによって、患者さんが救われた。
これをきっかけに、初の国産バルーンカテーテルは全国の医療施設へと広がった。
かつてのような事故も合併症も起きることはなかった。
医療の素人が、不可能だと言われた挑戦に打ち勝ったのだ!

日本初のバルーンカテーテル完成から3年。
1500本もの製品が売れたのを見届けるように、佳美さんは静かに天国へ旅立った。

開発から30年。
現在、他の会社でもバルーンカテーテルは製造されている。
医療におけるその功績は計り知れない。
事実、筒井さんの会社の製品だけで、約12万人もの命を救ってきたという。
それは、娘を救いたいという両親の愛がもたらした奇跡だった。

佳美さんが亡くなって26年。
現在、筒井さんが開発したバルーンカテーテルは、国内にとどまらず、海外29ヵ国に輸出されている。
中にはもちろん、特別な治療が必要な患者のためだけに、採算度外視で作られたものもある。

その一例がこの小児用に特化したバルーンカテーテル。
これにより症例が少なく、両親もその命を諦めざるを得なかったモンゴルの赤ちゃんの命が救われたという。

最後に筒井さんはこう話してくれた。
「こういう難しいものに挑戦し、やってることを佳美にも自慢ができるし、本当は見てもらいたいというのが本音のところですけども。」

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