アメリカ本土を爆撃した唯一の日本人

今から21年前の10月3日、アメリカのニューヨークタイムズ紙に、85歳で亡くなったある日本人男性の死が大きく報じられた。
しかし、アメリカを代表する大手紙がそのニュースを写真付きで報じた一方、日本では地方版で小さく報道されたのみ。
男の名は、藤田信雄…一体、何者なのだろうか?


亡くなる13年前の1984年。
神奈川県内のとある工場で藤田信雄は働いていた。
この時、73歳。
それでも彼は働き詰めの毎日を過ごしていた。
工場の宿直室を借り、食費も徹底的に切り詰め、服も買うのは下着だけ。
いつも工場の作業着姿だった。
そんな、ある日…娘の順子を呼び出し、通帳を差し出し、「これで、あの時の約束を果たしたいんだ。」と言った。
70をとうに過ぎた男が身を粉にして働き、貯めたお金で果たそうとした約束とは?


すべては、その43年前にさかのぼる。
1942年、第二次世界大戦のさなか、日本はアメリカと激しい攻防を繰り広げていた。
当時、29歳の藤田は潜水艦に搭載された偵察機の飛行長として従軍。
敵を何機も撃墜し、飛行時間6000時間を誇る腕利きのパイロットだった。
その年の8月…軍令部から藤田に呼び出しがかかった。
軍令部とは、海軍全体の作戦・指揮を統括する中枢機関。
なぜ下っ端の自分が呼び出されたのか、藤田には見当もつかなかった。


この年の4月18日、アメリカ軍爆撃機隊の指揮官・ジミー・ドーリットルが日本本土に対して、初めての空襲を行った。
東京や名古屋などを次々に爆撃。
日本はこれを国際法上禁じられている民間人への攻撃とみなし、国民の怒りは沸騰していた。
そこで、軍令部は報復としてアメリカ本土への爆撃を考えていた。
そこで、藤田に白羽の矢が立ったのだ。
さらに…その任務は、藤田が操縦する一機のみで行うという。


それはかつて、どの国も成し得たことがない前代未聞の作戦。
大都市や軍施設への爆撃は、アメリカ軍の厳重な防空網にひっかかり、失敗する可能性が高い。
そこで、目標をアメリカ西海岸オレゴン州にある、人口わずか3000人の町、ブルッキングス市の森林地帯に設定。
広大な森林に焼夷弾を投下。
森を炎上させることで起こる、猛烈な熱風が近隣の町を襲い、恐怖と大混乱に陥れる作戦だった。
この作戦は、極秘事項であったため、なぜ森林地帯を選んだのか、様々な説が存在する。
1つは、アメリカとの違いを示すため、直接的に民間人を殺傷しないよう、森林とした説。
また、西海岸は乾燥した風土で、小さな火災でも太平洋から吹き込む風で大規模な火災になる事例が近年でも発生している。
これを利用し、最小限の爆撃で最大限の被害を及ぼす事が出来たからという説も考えられるという。


8月15日、藤田を乗せた潜水艦は、オレゴン州沖を目指し、横須賀港を出発した。
この作戦は、まず、潜水艦を発見されにくい夜明け前に浮上させ、艦上で偵察機をわずか15分で組み立て、その両翼に焼夷爆弾2個を搭載。
艦に搭載されたカタパルトで射出し、森林へ向け飛び立つ計画だった。
操縦は藤田、そして補助に部下の奥田兵曹。
たった2人で、アメリカ本土を爆撃する事となった。
だが、いくら森林を燃やすだけとはいえ、この任務がどれだけ危険なものか、藤田にはわかっていた。
藤田は作戦を決行する前に遺書を書き残していた。
爆撃が成功してもすぐに敵機が来る…藤田たちは一機のみ、撃墜は免れない。
もし万が一、アメリカ軍に捕まった場合は関係書類を破棄し、機体もすみやかに破壊し海に沈め、自分たちは自決しなければならないと考えていたのだ。


そして9月9日、ついにその時がやってきた。
藤田は日本刀を持って機体に乗り込んだ。
5時30分、目的地に向け出撃。
藤田は作戦通り、森林への爆撃に成功。
さらに、運良く敵機に発見されることもなく、無事、帰還することができた。
すぐさま帰還したため、実際に山火事が起きたかどうか、確認をする余裕はなかったが…
軍令部からの電報で、数人の死傷者と相当の被害が出たことを知らされた。
作戦は成功。
さらに不可能と思われた生還まで果たした藤田だったが、命令とはいえ、民間人を殺傷したという事実から手放しで喜ぶ気持ちにはとてもなれず、その後も複雑な思いを抱き続けたという。


そして…藤田の決死の空爆も、戦局に何の影響も与えることはできなかった。
アメリカ軍は日本本土への本格的な爆撃を開始。
3年後の1945年4月1日には、沖縄に上陸。
追い詰められた日本軍は、ついに神風特別攻撃隊、いわゆる特攻に代表される、無謀な作戦に踏み切っていた。
当時、藤田は若手パイロットの育成に当たっていたのだが…飛行技術を教えた、教え子たちが次々と特攻に志願、戦死していった。
さらに…一緒にアメリカ本土爆撃の作戦を遂行した奥田兵曹も戦死した。


そして…藤田も自ら特攻隊に志願したのだ。
藤田が自ら特攻隊に志願した理由、それは…『自分が教育し指導してきた第一四期予備学生の先頭に立ち、ともに沖縄の敵艦隊に突入する…これが私の国に対する、最後の忠誠と確信していたからである。』
 だが…1945年8月15日。日本は無条件降伏。
戦争は終わった。
藤田は当時の思いを、こう書き残している…
『わたしはぼんやりと力の抜けた体を、飛行場の焼けたコンクリートの上に投げ出して考えていた。今のいままで特攻隊として、いかに死すべきかと考え続けてきたのに、ついに生き残ってしまった。』


それでも、家族を養うために藤田は生きなければならなかった。
茨城県で金物の行商を開始。
戦後の混乱の中、必死に働いた。
その間、家族にもアメリカ本土を爆撃した話や戦争の話は一切しなかった。
長女の順子さんは、当時の父についてこう語る…
「航空会社とか色々就職の誘いは来ましたけど、一切戦争の事は思い出したくなかったんだと思う。全てお断りしていた。戦争は死んでる方がいますよね。そういうのを思ってだと思います。」


だが、終戦から17年たったある日…藤田の運命を変える出来事が起こる。
1962年4月…49歳となった藤田はある人物から、赤坂の料亭に呼び出された。
それは当時の官房長官で、後に首相となる、大平正芳。
実は…藤田が爆撃したあのブルッキングス市から招待がきたというのだ。
1962年当時、日本人は政府の許可なしには、自由に海外に行けず、アメリカへの渡航経験がある人間はほとんどいなかった。
そのため、行くとなれば政府が飛行機をチャーターする手はずとなる。
この時、終戦からはまだ17年しか経過しておらず、いまだ大都市への空襲や原爆を投下したアメリカに対して憎しみを抱く日本人は多く…またアメリカ側も、日本に良い感情を持ってない人々が多かった。
行くとなれば、不測の事態が起こるかもしれない…。


行くかどうかは、藤田の判断に任せるという。
しかし、藤田が渡米しても日本政府は一切関与しないというのだ。
つまり…藤田に万が一のことが起こっても、日本政府は藤田の身を守ることは出来ないというのだ。
その後、藤田の自宅にもブルッキングス市から招待状が届き…文面には、家族も共に招待したいと書かれていたことから、彼は初めて当時の爆撃について家族に告白、招かれている事も告げた。
家族は行く必要はないと言ったが…藤田は招待を受けることを決意。
藤田は、アメリカ本土を爆撃して死者を出した、どのくらい被害が出たのか知ることは自分の義務だと考えたのだ。
藤田はこの時、妻子は日本に残そうと思っていた。
だが彼の決意を目の当たりにした家族は、共にブルッキングスへ行くことを決意。


そして、1962年5月23日。
藤田は、家族とともにオレゴン州ブルッキングス市に降り立った。
その手には、日本政府から特別な許可を得て、戦時中、肌身放さなかったあの日本刀を携えて…
藤田はこの時のことをこう書き残していた。
『どんな事態が起きても、さすが日本の元軍人だ、立派だ…このように従容とした態度でありたいと思う。ましてや、こんどは妻や子どもを同行するだけに、自分の胸に覚悟をたたみ込んでいた。』


それは、かつて飛行機で爆撃した土地への20年ぶりの訪問。
そこに待ち受けていたのは…ブルッキングス市民の大歓迎だった!
実は…ブルッキングスでは、毎年恒例の『アゼリア祭り』というイベントに、毎回 特別ゲストを招いていた。
この年、開催者の中にアメリカ本土爆撃を覚えていた人物がおり、たった一機で実行した日本人の勇気を称える声が上がった。
そこで彼らは、オレゴン州の日本領事館に手紙を書き、日本の外務省を通し、連絡先を入手。
藤田に招待状を送ったのだ。


実はブルッキングスでは、藤田の招待が決まった後、元軍人を中心に反対運動が起こり、大騒ぎになっていた。
だが、フィリピンで日本軍の捕虜となり、終戦まで北九州で強制労働を強いられていたローガン・ケイ元陸軍少佐が、在郷軍人会たちを説得して、真っ先に募金をしてくれたという。
憎むべきは藤田ではなく、戦争そのものだと言って。
さらに、藤田が爆撃して出た被害は…木、一本だけだったのだ。
実は藤田が爆撃を行なった日の前日。
ブルッキング市には雨が降っており、森林はまだ湿った状態だった。
そのため、火が燃え広がる事はなく、木が一本燃えたにとどまっていた。
死傷者と相当の被害が出たという現地の放送は、誤訳か、士気をあげるために軍令部が創作したものと推測された。


この際、藤田はあるものをブルッキングスに寄贈。
それは…藤田の魂とも言うべき、日本刀。
さらに、藤田の中に、こんな想いが芽生えてきた。
『なぜ、こんなに人情味の溢れる人たちと戦争しなければならなかったかという悔い』
『それにもまして、私の米本土爆撃の意味とは何だったのか…』
あの日、藤田は軍令部に命じられるがまま、憎きアメリカの本土を命がけで爆撃。
教え子たちは、鬼畜米英というスローガンを信じ、敵艦に突っ込み、若き命を散らした。
だが…今、目の前にいるのは『憎きアメリカ』などではなく、藤田の勇気を称え、心から歓迎してくれる心優しき人々。


藤田はブルッキングス市民の前で、こう話した。
「もし、私たちが互いをよく知る友達であれば、そもそも戦争は起こらなかったのではないか?そう思うのです。そこで…私は約束します。日本のことをあなた方に知ってもらう為に…いつの日か、必ずブルッキングス市のこどもや学生たちを私の手で日本に招待したいと思います!」


これこそが…藤田が70歳を過ぎてもなお、守り抜こうとした約束だった。
ブルッキングス市訪問後、藤田は金物店の仕事に今まで以上の力を入れ、懸命に働き続けた。
そして、13年後。商売が軌道に乗った所で、会社を息子に一任。
自身は、できるだけ多くの子どもたちを招こうと、準備に奔走する事に。
しかし、そんな折のこと…息子に任せた店が、まさかの倒産。
藤田は無一文の身になってしまう。
だが…それでも、諦めなかった。
航空隊時代の教え子が工場を経営していると聞き、就職を懇願したのだ。


彼が長年、書き記した日記がある。
中には、こんな言葉が…
『ひとり感慨にふける日である。あの日、私はこの世を去ると思っていた。よくも今まで生きたものだ。今から何が出来るか しかし やるぞ』
何とかあの時の約束を果たしたい。
ただ、その一心で工場に就職し、少しずつ、お金を貯めてきたのだ。
『アメリカ招待のお返しがしたい。ブルッキングスの学生たちを未来の科学博に招待したい。』
そう、藤田の目標は、平和と人類融和の象徴である科学万博つくば85に、子どもたちを招く事。
それが自分の使命だと信じて。


これは当時の給料明細…基本給はおよそ12万円。
その先を見ていくと…『貯金 26,300円』と書かれている。
そう、藤田は決して多くはない給料から、毎月2万6千300円を貯金し続けた。
達した金額はおよそ…100万円。
そして1985年7月8日…遂につくば万博の開催に合わせ、ブルッキングス市の高校生3名が来日した。
決死の空爆を行ってから43年。
ついに、藤田信雄は、生涯をかけた約束を果たした。


今回、日本に招待された3人の高校生だった、リサさん、サラさん、ロビンさんに当時の様子を伺う事ができた。
サラ「行く前はどんなことになるか全くわかりませんでした。彼は戦争の英雄なわけで、少し恐怖を持っていたかもしれません。しかし実際に会うと、彼は暖かく、愛情に溢れ、とても素晴らしい方だったんです。」
ロビン「私たちは、彼をすぐに慕いました。私たちが『どうもありがとう』と言うと、彼は手を叩いて喜んだのです。」
リサ「私たちは高校も訪問しました。日本の学校と私たちの学校との違いを語り合いました。彼らと過ごした時間はとても楽しかったです。」


実は藤田は、つくば万博だけでなく、日本の高校も訪問する日程を組み、さらに筑波大学の学生に通訳も依頼していた。
そこには、藤田のこんな想いが…
『日米の若者が相互理解と親善を繰り広げてもらえれば、再び悲惨な戦争も繰り返すことは避けられますよ。』
藤田がブルッキングス市の高校生を招待した本当の目的…それは、若者たちによる日米友好の架け橋となることだったのだ。
さらに、こんな言葉も…残している。
『私の戦後は、これでやっと終わります。』
そして、およそ1週間の滞在を終え、ブルッキングス市の高校生たちは帰国。


その後も藤田さんは、ブルッキングス市を3度訪問。
自身が焼夷弾を投下した現場にも訪れた。
また、市長などを乗せ、セスナ機を操縦するパフォーマンスも披露。
さらに、ブルッキングス市の子どもたちの役に立つようにと、寄付金も募集。
その資金をもとに、オレゴン州最大の図書館が設立された。
館内には、藤田さんが寄贈したあの日本刀も大切に展示されている。


そして、1997年。
ブルッキングス市は、藤田さんに名誉市民を授与することを決定。
本人に伝えるため、市長が日本に訪れたのだが…奇しくも、その当日…藤田さんは85歳でこの世を去った。
その悲しみは海を越えアメリカのニューヨークタイムズ紙でも大きく報じられた。
かつて、アメリカ本土を爆撃したただ一人の男、たった一つの約束を守るために生き抜いた藤田信雄さん。
晩年、彼は日記にこんな言葉を残した…
『宗教、人種、異国すべてを話し合いで解決する世の中が早く来ることを期待する。人は心が通じれば、強い絆にて続く、そこには人類や 敵味方や うらみも にくしみもない心からお互いの幸を祈りたい。』


戦後、4度ブルッキングス市を訪れた藤田さん。
その都度、日米友好のために行動してきた。
そんな彼に敬意を表し寄贈されたものが、茨城県土浦市にある、陸上自衛隊 霞ヶ浦駐屯地に展示されている。
贈り主は、なんとアメリカ合衆国元大統領、ロナルド・レーガン!
それは、ホワイトハウスに掲揚されていた星条旗。
自宅に保管スペースがなかったため、交流のあった駐屯地に保管委託したという。
さらに、こんなメッセージも…
「藤田信雄さんへ あなたの優しさと寛大さに感動しています」


アメリカ、オレゴン州ブルッキングス市。
中心地から車でおよそ1時間半、さらに30分歩いたところに、藤田さんが爆撃した場所がある。
唯一燃えた一本の木があった地点には、印が立てられており…その傍らには26年前に藤田さんが植樹した木が大きく育っていた。
戦争中に自らが爆撃した地、戦後、その地から招待されたことにより、日米友好のために力を尽くした藤田信雄さん。
彼は、今もこの場所から、平和な世界の実現を願っているに違いない。


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