ものは順繰り ~下仁田納豆の運命の出会い~


父から廃業寸前の食品会社を継ぎ、再建へ向けあらゆる手を尽くすも、八方塞がり。
だが…今ではその商品は、全国の百貨店や有名スーパーに並び、食通がこぞって買い求めるほどになった。
起死回生の逆転劇。
それは、過去から脈々と続く男たちの熱い想いの連鎖が生んだ奇跡だった。
物語の主人公、父から会社を引き継いだ南都隆道さん(旧姓 伊藤)はこう語る。
「恩返しより、恩送り」、「恩送り」その言葉の意味とは一体?

今から27年前の1992年元日。
南都隆道の父、伊藤幸夫は、家業の納豆店を畳むことにしたことを家族に話した。
群馬県下仁田町にあった「伊藤納豆店」は、父が始めた30年ほど続く納豆店だった。
納豆店といっても店舗はなく、工場で納豆を手作り。
豆は主婦が買いやすい値段にするため、安いものを使用していた。
だがその分、製造方法にはとことんこだわっていた。
暖房設備を使って醗酵させるところを、炭火にヤカンを掛けて湿度を高めた室の中で醗酵。
温度調整が難しくはなるが、芯まで温まり、ふっくらとした豆になるのだ。

値段は1個70円。
毎朝、朝食に合わせて近所の家庭に売り歩く「引き売り」で販売していた。
最盛期には、1日1500個を製造、月商は200万円に上った。
だが時代が変わり、朝、家族が揃って朝食を食べる家庭が少なくなったこともあって、売り上げは年々減少。
1990年代に入る頃には、製造は1日に500個、月商は70万円ほどにまで落ち込んでいた。
子供たちは、先細りが見えている家業を継ごうとはせず、長男の隆道も東京でサッシメーカーに技術者として就職。
このような状況から、父は納豆店を畳むことを決意したのだ。

しかし…それを聞いた隆道は、会社を辞め、納豆店を継ぐことを決意。
納豆店を継いだ隆道は、店名を心機一転、『下仁田納豆』に変更。
しばらくは引き続き、両親が製造を担当し、隆道は手伝える事はやりつつ、納豆に関して勉強をしながら、販売を担当することになった。

すでに引き売りの時代ではないと思い、群馬県内のスーパーや小売店を回り、納豆を置いてもらおうと考えた。
だが…店頭に置いてもらうとなると、当然 店の利益が上乗せされるため、必然的に売値は70円よりも高くなる。
そのため、なかなか置いてもらえるところは見つからず、およそ100軒回って、置いてくれることになったのは、たったの2軒だけだった。
2軒に置いてもらえたことで、なんとか月商は一番低かった時期の70万はキープできた。
しかし、材料費などを差し引くと、隆道の手取りは8万円ほどにしかならず、ギリギリの生活を強いられた。
代替わりして1年が経った頃、今度は挨拶回りと称して、関東にある大豆加工食品会社を片っ端から回り始めた。
実は、挨拶とは名ばかりで…同業者がどうやって経営を成り立たせているのか、偵察に行ったのだ。
その後も…同業他社の偵察と並行して、関東のスーパーも回ったが、どこも空振りだった。
そんな暗い気持ちで、埼玉県のとあるスーパーに寄ったときだった。
300円もする豆腐が置いてあるのを見つけた。
しかも店の人気商品だという!

その帰り道…隆道は、先ほどの豆腐を作っている会社を訪ねてみることにした。
突然の訪問に応対してくれたのは…『もぎ豆腐店』の茂木稔(47歳)だった。
『もぎ豆腐店』は昭和元年、先代の茂木三之助が東京日本橋で創業した豆腐店。
その後、埼玉県本庄に移動し、当時は、二代目である茂木稔が代表を務めていた。
茂木は他の企業などとは違い、隆道を歓迎、それまでの経緯に耳を傾けてくれた。
そして、茂木は自身が使用している大豆で自分の納得がいく納豆を作って持ってこいと言い出した。
さらに、茂木は大豆を仕入れた値段のままで売ってくれたのだ。

隆道はその大豆を使い、両親とともに新たな納豆作りを開始。
試作を重ねたのち、茂木豆腐店に持って行くと…隆道の言い値の270円で全部買い取ってくれた。
こうして、下仁田納豆は、茂木豆腐店の直売店に並べられることとなったのだが…
なんと茂木は大豆のみならず、買い取った納豆にも利益を乗せず、仕入値のままの値段を付けたのだ。
それから下仁田納豆は、毎日、もぎ豆腐店に納豆を買い取ってもらえるようになった。
結果、70万円だった月商は270万円となり、一家の生活は一気に安定したのだ。

しかし茂木は、なぜ隆道にここまでしてやろうと思ったのか?
そこには、彼の過去に隠された、ある出来事が関係していた。
『もぎ豆腐店』は茂木の父・三之助が起業した当時、一般的な値段のごく普通の豆腐を作る店だった。
それを父の死後、茂木が二代目として継いだのだが…作っていたのは父と同じく普通の豆腐。
しかし、いつかは日本一旨い豆腐を作ってみたいという、漠然とした夢を持っていた。
しかし、現実に追われ、行動に移す事は出来ず…気付けば、17年の歳月が流れていた。

そんなある日、もぎ豆腐店を大きく揺るがす出来事が起こる。
茂木が豆腐の大部分を納品していた会社が突如、取引をやめると言い出したのだ。
困り果てた茂木は…付き合いのあった、農業を営む人物に相談をしてみた。
すると、本当に美味しい豆腐を作るという夢を叶える良いチャンスではないのかと言われた。
そして、「困ったことがあれば、いつでも相談に乗ってやるからよ」とも言ってくれた。
こうして、新しい豆腐作りを開始した茂木。
しかし…父の代から安い大豆で豆腐を作っていた茂木は、どうしたら旨い豆腐が作れるのか、大きな壁にぶつかっていた。
良い材料を購入すれば、その分 値段も上がり、現実的ではなくなってしまう。
そこで…今度は知り合いの販売コンサルタントに相談してみる事に。
すると…「お前がこれだと思う材料で豆腐を作って、それに見合う値段をつけて、自分で売ってみろ。困ったらいつでも相談に乗ってやるから」と、言ってくれたのだ。

こうして、茂木は納得いく大豆で、納得のいく豆腐を作る事に専念。
父が作っていた豆腐は『柔らかな木綿豆腐』というのが売りであったが、それを超える『滑らかで旨い豆腐』を目指した。
しかし、滑らかな豆腐を作るには、凝固剤となる『にがり』の配分が非常に難しく、試行錯誤を繰り返した。
試作品が出来ると、相談に乗ってくれた人々に試食してもらい、アドバイスを受けながら、さらに改良を重ねた。

そして、豆腐が出来上がると…農家を営む男性が自分の作物も卸している百貨店のバイヤーを紹介してくれた。
こうして茂木の作った『三之助とうふ』は、百貨店で販売してもらえることになった。
そして…突然の取引中止から2年が経つ頃には、『もぎ豆腐店』は多くのファンを獲得、全国的にも有名になっていった。
さらに、従業員も増やし、工場を新設。
その隣りに直売店も設け、大きな企業に成長していった。


そんな茂木のもとを隆道が訪れたのは、豆腐店が軌道に乗ってから2年後の1993年のことだった。 
茂木は最初に下仁田納豆を買い取って以来、利益を上乗せすることなく、一貫して同じ値段で販売し続けた。
しかし、そんな日々が一年続いた、ある日のこと…茂木から突然、取引中止を申し渡された。
そして…これからは、自分で豆を仕入れて、自分で売ってみろと言うのだ。
隆道はまず、茂木から許可を得て、それまで『もぎ豆腐店』から購入していた大豆を、直接仕入れる事にした。
しかし…問題は、売値にして270円の納豆をどこにどうやって売ったらいいのかということだった。

もぎ豆腐店に来る客は、三之助とうふを買うような舌の肥えた客、だから高い納豆も売れたのだ。
隆道は駄目元で、東京の有名百貨店を訪れた。
すると…試食もせずに取引をしてくれることになった。
さらに、他の百貨店を訪れてみたのだが、やはり試食もせずに取引をすることになった。
実は、茂木が買い取った下仁田納豆は、茂木豆腐店の直営店で全て売られていたわけではなかった。
その多くを茂木がサンプルとして、百貨店をはじめとする店舗に渡したり、送ったりしていたのだ。

こうして、多くの百貨店などに置いてもらえるようになった下仁田納豆。
1個300円と高級なものだけでなく、3個1パックで300円と比較的手頃な値段のものなど、いくつもの商品を用意。
それらが百貨店に並んだことで、人々の目にとまり、評判を呼ぶようになった。
そして今では、全国190社と取引するまでに成長。
設立から7年後の1999年には、年商2億円を突破するまでに成長。
数年前には新たな工場が建てられ、従業員も増えたが、製造方法を変える事はなく、今もほとんどの行程を手作業で行っている。

そして、もぎ豆腐店もその人気は衰えることなく、今なお、多くの人々を魅了し続けている。
しかし、今から6年前の2013年、茂木さんはガンのためこの世を去った。
隆道さんが、茂木さんから教わったこととはなんだったのだろうか?
「仕事は自信と誇りと情熱を持ってやる、それが重要だという事を教わりました。茂木さんからして頂いたことを、次の世代に繋げていく事が茂木さんに対する恩返しだと思います。恩返しよりも恩送りということが真実だと思います。」

今も群馬県下仁田町で納豆作りを行っている『下仁田納豆』。
隆道さんと茂木さんの付き合いは、下仁田納豆が成功した後も続いた。
隆道さんは、茂木さんのことをこう話してくれた。
「茂木さんはストレートに伝えないことが多かったんです。まだ若いんだからすぐには分からない。一から十まで教えれば早いんだけれども、教えたら自分のものにならないと。寛容な方でした。」

実は、今回紹介した茂木さんが過去に危機的状況に陥っていたこと、その時に助けてもらった恩人がいたこと、こうした事実は番組スタッフが当時を知る関係者から伺った内容であり、隆道さん自身は知らないことだった。
そこで、インタビュー撮影の際、これらの事実を伝えると…
「本当にありがとうございます。一番重要な事を、今、教えてもらっているのかもしれない。本質の『ものは順繰り』という事に関しての事。少しでもそれに近づけるように頑張らないといけないな。何か天国でね、見てくれて、叱咤激励してくれればいいなって思いますよね。」

Close×