友情が試される時 高校生たいの熱き青春物語

旧東ドイツの小さな町、シュトルコーにかつて存在した、クルト=シュテッフェバウワー高等学校。
今から63年前、4年生高校の最終学年を迎えたこのクラスは、20名全員が大学進学を目指すエリート候補だった。
その中に、他の生徒たちより少しマセたグループがあった。
彼らが話題にしていたのは、その時 起こっていたハンガリー動乱のことだった。


時は米ソ冷戦時代、東ドイツと同様にソビエト連邦に事実上支配されていたハンガリー市民が大規模なデモを起こした。
だが、駐留していたソ連軍が武力によって鎮圧、数千人の市民が殺害された。
実はその3年前、ここ東ドイツでも同様の暴動があり、やはりソ連軍によって鎮圧されるという事件が起こっていた。
以来、比較的自由だった生活に秘密警察の監視の目が光り、自由な意見を口にしづらい空気が漂いつつあった。


そんな中、禁じられていた西側のラジオ放送を聞き、多くの市民がソ連軍の暴挙に憤りを感じていた。
ラジオの影響は生徒たちにも…ラジオで犠牲者のための黙祷を呼びかけていたことを知ると、自分たちもやろうということになった。
言い出したのは、ムードメーカーのディートリッヒだった。
黙祷を実行するのは、授業が始まる10時から5分間。
そのことをクラス中に伝えた。


こうして高校生たちのささやかな反乱の幕が開いた。
授業冒頭、社会科教師のモーゲルは、生徒たちに「第一次世界大戦に対して社会民主党が取った対応は?」という質問を投げかけた。
しかし、誰を指名しても誰も何も話さない。
モーゲル教師は不審に感じ、苛立った。
そうして、ようやく5分が過ぎ、高校生たちのささやかな反乱は幕を閉じた。


黙祷から12日後のこと…学級委員長のディーゼラが校長室に呼び出された。
待っていたのは、校長と地域の教育長代理だった。
そして、授業中に行われた黙祷の首謀者が誰なのか問い詰められた。
実は授業中の生徒たちの黙祷がハンガリー動乱の最中に起こったことに気づいたモーゲル教師は、そのことを党に報告していたのだ。
すると…首謀者を突き止めるように教育長代理 共々、厳命を受けていたのだ。
ディーゼラも、他の生徒も「首謀者はいない」「黙祷などしていない」とシラを切り通した。


黙祷から1ヶ月以上が経過した放課後のこと…国民教育省の大臣がクラスにやって来たのだ。
しかし、ディートリッヒは家の用事があると言って1人帰宅してしまった。
大臣は、1週間以内に首謀者を教えなければ、クラス全員、大学入学資格試験への参加を認めないと、生徒たちを脅した。
ドイツで大学に進学するには、大学入学資格試験を受けなればならないのだ。
もし、試験を受けることが出来なければ、大学への道は絶たれ、将来の夢も消える。
進学が目的で高校に通う生徒たちにとって、それは退学を意味していた。


さらに…家にまで秘密警察の捜査官がやって来て、首謀者の名前を言うように脅したのだ。
秘密警察は、大臣が来た時に1人帰宅したディートリッヒを疑っていた。


そのことをクラスメイトは、ディートリッヒに伝えた。
3年前の動乱で捕まった人々はまだ投獄されたままになっている…ディートリッヒは西側に逃げることを決意した。
ディートリッヒは、自分が西側に逃げたら、自分の名前を言うようにクラスメイトに伝えた。
そうすれば、みんな助かると考えたのだ。
当時はまだベルリンの壁が作られる前、東西の行き来についてもそれほど厳重に管理されていなかった。
家族のため、自分のため、そして友達のために…気持ちに迷いはなかった。


そしてついに、期限の一週間が経った。
調査員がクラスにやって来て、首謀者の名前を言うように促したが、誰も何も言おうとしなかった。
ディートリッヒは、すでに西側に逃げていた。
調査員は、彼が首謀者だと認めれば、全員に大学入学資格試験を受けることを許可すると言う。
それでも生徒たちは、首謀者はいないと言い張った。
そして、クラス全員、退学処分とされてしまった。
こうして、高校生たちの闘いは終わった。
夢も輝かしい未来も消え去った。


2年後、3月17日、新聞に衝撃的な見出しが踊った。
退学した生徒たちが大学入学資格試験に合格したというのだ!
一体どういうことなのか?
当時の卒業生はこう語る。
「あの時の我々には、最後に1つだけ残された希望があったのです。この唯一の選択肢に賭けたのです。」
それは…東ドイツからの脱出!


あの後、男子生徒14人全員が、西ドイツ行き列車に乗車。
ウソの用事をでっち上げ検問を無事突破、見事 亡命を果たしたのだ!
それは、家族との永遠の別れを覚悟し、投獄される危険を顧みず行った勇気ある行動だった。
幸い、亡命を許した家族が党から厳しい追及にあうことはなかった。


その後、女子1人が同じく列車に乗り、亡命。
先に亡命していたディートリッヒを加え、最終的に亡命者は16人となった。
大学入学資格試験の制度は西ドイツでも同じだったため、彼らは晴れて試験を受け、大学進学を果たしたのだ。
そして、残った4人の女子生徒たちも…残ったことで逆に首謀者ではないと認められ、大学入学資格試験を受けることを許されたと言う。
あの時の決断を、生徒は誰1人後悔していないと言う。
彼らが貫いた友情は、今も輝き続けている。


今年7月、カースティンさん、ウルスラさんの2人と思い出の教室がある高校を訪ねてみた。
ウルスラさんは、東ドイツに残り、大学を卒業後、教師の道へ。
カースティンさんは、西ドイツの化学会社の開発部門で活躍した。
そして、思い出の校舎は、残念ながら老朽化のため取り壊され、新しい小中学校に建て替えられていた。
ウルスラさんは最後にこう話してくれた。
「今 この歳になって改めて考えてみても、あの時の行動は正しい事だったと思います。」

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