9回出撃して9回生還した男 ~無駄死にするな!~

太平洋戦争末期に編成された『特別攻撃隊』、通称『特攻隊』。
自らの命と引き換えに、敵艦への体当たりで戦果をあげる特攻隊において、なんと9回出撃し9回とも生還した奇跡の男がいる。
当時21歳の若き下士官操縦士、佐々木友次伍長。
絶対命令にことごとく背き、「生き残る可能性はほぼゼロ」といわれる特攻で、戦果を挙げてなお、生きることにこだわった。
一体なぜ、9度も生還できたのか?
そこには父の教えと、尊敬してやまない隊長との約束があった。

今から96年前、北海道当別町の農家に、佐々木友次は、12人兄弟の6男として生まれた。
多感な少年時代、心をときめかせたのは、毎日一便だけ上空を通る、新聞社の飛行機だった。
17歳の時、「操縦生募集」の張り紙を見て、民間機のパイロットを育成する仙台の養成所に応募し、合格。
「飛行機乗り」の第一歩を踏み出した。
たが、この養成所には、別の目的があった。
それは陸軍の予備役、いわば軍のパイロットのバックアップ要員を育てること。

入所した翌年の1941年、日本がアメリカへ宣戦布告。
太平洋戦争が始まると、養成所を卒業した佐々木は、民間企業ではなく茨城県の鉾田陸軍飛行学校に配属された。
それでも…所属先はどうあれ「空を飛ぶ」ことこそが喜びだった。

そんな佐々木の大胆な操縦技術を認め、可愛がってくれた人がいた。
岩本益臣(ますみ)大尉、28歳。
陸軍士官学校出のエリートだったが、飛行技術は肩を並べるものがいない程の実力を持っており、また爆撃の名手でもあった。

時は流れ、開戦から3年が経った頃、アメリカは日本軍が占領していたフィリピンを足がかりに、日本本土へ上陸をはかろうとしていた。
そんな中 佐々木は、フィリピンを拠点とする第四飛行士団で新たに結成された、岩本が隊長となる部隊『万朶隊』(ばんだたい)の一員に任命された。

万朶隊は、岐阜県の飛行場で自分たちが乗る飛行機と対面した。
それは、訓練で乗っている「九九式双発軽爆撃機」だったが、先頭から3本の槍が突き出ていた。
槍の先には起爆管が付いており、根元からは太い電線が伸び、爆弾倉の方に伸びている。
それは起爆装置…先の起爆管のスイッチが何かに当たったら、爆弾が爆発するようになっていた。

さらに、本来あるはずの機関銃が外されていたばかりか、爆弾を落とすときに必要な、投下器すらなかった。
これでは、爆撃機なのに爆弾は落とせない。
そう、この飛行機は『体当たり専用』に改造されたものだったのだ!
隊員達は『自分達の命と引き替えの任務』であることを悟った。

だがこの時、佐々木は、不意に父・藤吉のことを思い出した。
父は、日露戦争の時、ロシア軍にほぼ全滅させられた決死隊『白襷隊』の一員だった。
この激戦で、奇跡的に生き残った父には1つの信念が生まれていた。
父は、「人間は容易なことで死ぬもんじゃない」と、いつも子供達に言って聞かせていたのだ。
そんな父の言葉を思い出した佐々木は、簡単に死ぬわけにはいかないと思い直した。

また同時に、操縦者としてある疑問が浮かんだ。
改造された爆撃機は、体当たりしない限り爆弾が外せない仕組みになっていたが、事故や故障が起きたときに爆弾を抱えたまま不時着するしかない。
そうなれば、無駄死にでしかない。
それに、本来の目的は敵を沈めること、体当たりなら、1回突っ込んだら命共々それで終わり。
しかし爆弾を落とし、敵艦を沈めて帰って来ることができれば、何度でもお国のために戦えると思った。
そこで配線盤をいじるなど、色々試したのだが…ダメだった。

実は、この前代未聞の作戦、彼らがフィリピンへ向かう前日に、海軍の飛行部隊がすでに実行し、成果を上げていた。
それが、あの『神風特攻隊』だ。
太平洋戦争末期、戦局が圧倒的に不利となった日本海軍は敵艦に体当たりを仕掛ける自爆攻撃部隊「神風特攻隊」を編成、それに続くため陸軍が編成したのが『万朶隊』だった。


フィリピン到着後、『万朶隊』の任務は、アメリカ艦隊を撃沈することだと告げられた。
『万朶隊』の任務は、アメリカ艦隊を撃沈すること。
飛行機のツノは、3本から1本に変更されていた。
さらに、爆弾投下ができるようになっていたのだ!
爆弾は操縦席から投下できないよう改造されていたが、隊長の岩本は整備担当者に相談し手動のワイヤーロープを設置。
それを引けば、爆弾を落とせるようにしたというのだ。

岩本は、隊員たちにこう言った。
「最大の目的は、爆弾を命中させて敵軍を沈めること! 体当たりで死ぬことじゃない! 出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい! 何度でも手柄を挙げ、何度でも帰ってこい!」
しかし、この考え方は「お国のために死んでこい」という日本軍の指導とは真逆のもの。
実は…この飛行機の改造は、岩本の独断で行われたものだった。
それは当時の軍では死罪に相当するほどの行為だった。
それでも行動を起こした、万朶隊・隊長の岩本益臣大尉とは一体どんな人物だっただろうか?

岩本益臣、28歳。陸軍士官学校を出た、エリートパイロットだった。
岩本には、5歳年下の妻、和子がいた。
結婚したのは、1943年の12月20日。
それから1年にも満たない新婚だった。
和子は飛行機乗りの軍人を夫に決めた時から、2人の生活が長くはないかもしれないと思っていたが…皮肉にもそれは、現実になろうとしていた。

この日、岩本は同じ志を持つ軍人、竹下少佐から「体当たり専用」に改造された特攻機を極秘に見せられた。
爆弾の破壊力は、落下速度に比例する。
だが飛行機の体当たりでは、どんなに急降下しても翼があるため揚力が生じ、爆弾が落下する速度の半分ほどに低下してしまうのだ。
さらにこの頃には、飛行機の数も減っていて、1回の攻撃で1機失うのは極めて非効率的だった。

岩本は体当たり攻撃がいかに無意味で、効果が無いか、反論の公文書をまとめ陸軍の航空本部に提出した。
だが、上層部は岩本の忠告に聞く耳をもたず…1944年10月、ついに 海軍の『神風特攻隊』と陸軍の『万朶隊』という、日本最初の特攻隊が誕生したのだ。
そして、岩本自身がその体当たり部隊の隊長に指名された。

出撃の前日、和子は帰宅した夫の様子を見て、通常の出撃ではないと悟った。
岩本は、軍服につける襟章を2組取り出すと…和子に渡した。
それは『中佐』の襟章…いきなりの2階級特進だった。
結婚、10ヶ月め…忘れえぬ、最後の夜だった。
鉾田飛行場を旅立つとき岩本は規則違反をして自宅上空を旋回し、空から和子に別れを告げていた。

だが、その後到着した岐阜の飛行場で、東京の竹下少佐が信じられない情報を持ってきた。
そう、操縦席から爆弾を落とすあの方法は、改装次第でそれが可能であることは、特攻機の秘密を知る竹下少佐が命令違反と知りながら、岩本に教えたものだった。
少佐だけではない、整備担当者に改装を相談すると…整備兵もすぐに協力してくれた。
こうして、一度は体当たり攻撃を覚悟した岩本も、命令違反を犯してまで 特攻機を改装することにしたのだ。

11月4日、万朶隊に出撃命令が出ようかという日。
岩本隊長以下、5名のエリート隊員が突然上層部からマニラに呼び出された。
儀式好きで有名な富永恭次司令官が『激励の宴会をしたい』と彼らをマニラにある『第四飛行師団』の本部へ呼んだのだ。
こうして岩本ら5人の隊員は、翌11月5日午前8時、特攻機に乗って、リパ飛行場からマニラに向かった。

マニラまでは20分足らずで到着するはずだったが…いっこうにマニラの本部から到着の報せが届かないまま 夜9時を過ぎた頃、万朶隊に連絡が入った。
岩本隊長らは、2機の戦闘機から攻撃を受けたという。
乗っていた機体は特攻専用に改造され、銃機を取り外されていたため、丸腰状態。
マニラ近くの湖畔に墜落し、1人は重傷で救助されたが、岩本隊長を含む4人の遺体が発見された。

そのすぐ後に、陸軍最初の特攻隊・万朶隊に出陣の命令が下った。
貴重な写真がある。
出撃前夜に行われた、壮行会で佐々木を含む5人の隊員が、乾杯している様子を捉えた1枚。
各々が胸に吊した白い小箱、ここには数日前に亡くなった岩本隊長ら4人の名が記された紙片が、分骨の意味で入っていた。
共に訓練を続けてきた隊長ら、亡きメンバーの想いを胸に戦うためだ。
この時点で万朶隊の乗組員は、負傷中の者を除けば、佐々木ら5名の下士官のみとなっていた。


1944年 11月12日早朝。
いよいよ万朶隊が出撃した。
800キロの爆弾を積んでいるため、速度も遅くなり、動きも鈍くなった。
おまけに「死のツノ」は操縦に邪魔で、飛行は安定しづらかった。

やがて敵艦隊がいるレイテ湾が見えた。
それは、危険空域に突入したことを意味していた。
爆弾の安全装置を外すべく、2本のケーブルの1本を引いた。
これで、もう1本のケーブルを引けば、いつでも爆弾が投下できる。
岩本隊長が改装させたものだ。

少し小さいが、軍艦と輸送船を発見した。
佐々木は、高度5000mから急降下!
輸送船にねらいを定め、爆弾を投下!
海面に白い波紋が沸き立っていた。
はっきりは分からないが「外したかも知れない」、そう思った。
あとは必死で雲の中へと飛び込んだ。

佐々木は、アメリカ軍の飛行場から遠く離れたミンダナオ島の飛行場に不時着した。
この島が安全だと教えてくれたのは、岩本隊長だった。
こうして、佐々木は初の特攻で、生きて帰ってきた。
だが翌日、軍部からは意外な戦果が発表された。
それを元に書かれた新聞記事にこうある。
『佐々木伍長操縦の、四晩機は、戦艦に向かって矢のごとく体当たりを遂げ、見事に撃沈させた』

出撃の2日後、新聞で「名誉の戦死を遂げた」と発表された佐々木だが、もちろん 彼は生きていた。
しかし、それは上層部にとって都合の悪い事だった。
そして、参謀長からこう言われた。
「佐々木! 君は次の攻撃では本当に、戦艦を沈めてもらいたい」
それは「今度こそ本当に体当たりして死んでもらいたい」という意味だった。

実は、佐々木が体当たりで戦艦を撃沈したという発表は、天皇陛下にも報告されていた。
このままでは陛下に、嘘をついたことになる。
故郷では、なんと、佐々木の葬儀まで行われた。
『名誉の戦死』を遂げた特攻隊員は、軍神として祀り上げられるのだ。
こうして佐々木は『死んだ』ことにされた。

帰還した2日後、2回目の出撃。
死の覚悟はいつでも出来ていた。
しかし、空に舞い上がれば、感動を覚えた。
子供の頃から憧れた、パイロット。
日本の上空からは決してお目にかかれない、南方の絶景を独り占めしていた。

しかし、ペアを組む護衛機の隼が見当たらない。
佐々木の機体は、体当たり用に改造されているため、もし空中戦になったら、岩本の時と同様、一切攻撃できず、打ち落とされてしまう。
ゆえに、やむなく帰還した。
結果的に佐々木は生還したが、この日出撃した4機中2機のパイロットが撃墜され帰らぬ人となった。
これで万朶隊の特攻パイロットは、佐々木と奥原、2名のみとなった。

10日後となった3回目は、特攻機は2機で出撃することになった。
だが出撃直前、米軍の爆弾投下を受けた。
佐々木は必死に走って逃げたが、わずか3m離れた場所にいた、同僚の奥原伍長が被弾し、戦死。
ついに、万朶隊の特攻パイロットは、佐々木1人となった。
この頃になると、軍も佐々木の生存を認めないわけにはいかなくなり、新聞には彼が生きている事が発表されている。

だが、その3日後には、4回目の出撃を命ぜられた。
参謀長には、「今度は必ず体当たりするように!」と言われたが、佐々木はこう反論した。
「私は、死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも出撃して、何度でも爆弾を命中させます。」
これほど地位の違う上官に反論するなど、軍隊ではありえないことだった。
それでも、はっきりと言えた理由は、岩本なら きっとこう言うだろうと思ったからだった。

4回目の出撃では、佐々木を援護していた護衛隊の隊長が、天候の悪化を理由に全ての戦闘機を途中で引き返させた。
5回目の出撃では、途中でアメリカ戦闘機の編隊と遭遇。
機関銃のない丸腰状態の中で、なんとか逃げ切った。


参謀長から「腰抜けめ!お国のためにナゼ死ねん?」と詰め寄られても、佐々木は信念を貫いた。
もちろん、命が惜しいわけではなかった。
逃亡せずに隊に戻れば、次の出撃命令がすぐに下ることもわかっている中で、彼は毎回、部隊に戻ってきていたのだから。

6回目の出撃では、敵艦からの高射砲をかいくぐって爆弾を投下。
ついに大型船を沈め、帰還した。
この戦果は大々的に報じられたが、またも佐々木は「体当たりによる名誉の戦死」と発表された。
7回目の出撃は初めて離陸に失敗した。
整備のミスが原因だった。

8回目の出撃になると、援護の戦闘機が全く付かず、たった1機での出撃となった。
やがて、敵の大船団を発見したが、援護がなければ敵を敵をかいくぐって爆弾を落とすのはほぼ不可能…考えた末、佐々木は帰還することにした。
9回目は、上空で機体が不調をきたし、飛行不可能と判断、やむなく基地へ戻った。
そして…いよいよ 病魔に襲われ、マラリアを発症。
治療を受けている間に、フィリピンでのアメリカとの戦いに日本は敗れ、佐々木の特攻隊としての役割も終わった。

1945年 8月15日、終戦。
日本は戦争に敗れた。
佐々木は、フィリピンの捕虜収容所を経て、翌年の1月6日、帰国の途に着いた。
その間、収容所で知り合った日本の記者から、衝撃の事実を聞いていた。
「第四飛行師団が、佐々木の銃殺命令を出していた」というのだ。
理由は…大本営発表で死んだ者が生きていては困るから。
銃殺命令は、あの参謀長が実行するはずだったという。

帰国した佐々木は、すべてを忘れ、戦後を生きていこうと決め、故郷の北海道に戻った。
だが、1つだけやらなければならない事があった。
尊敬する岩本隊長の墓参りだ。
折を見て、未亡人となっていた和子に会いにいった。
佐々木は、和子が知らない、出征してからの岩本の様子を伝えた。
どんなに忙しくとも手紙を書いていたこと、いかに和子を愛していたかということを。

終戦から74年。
当時、死の覚悟を強いられる日々を送る中、勇気を持って自分の命を有効に活かすことを考えた人々がいた。
彼らのことを、我々は忘れてはならない。

戦争で夫を失った和子…孤独に押しつぶされそうな思いをどうすることもできずにいた。
そんな頃…たまたま、岩本の姉が1歳の息子を連れて訪ねてきた。
その子は、笑うと岩本そっくりだった。
そして、義姉から「この子を益臣(岩本)の子として育てたらどうかしら?」と提案された。
和子は、生きていく理由を見つけた気がした。
養子に迎え、夫の名前から1文字取り「博臣」と名付けた。

一方、佐々木は、戦後、実家の農家を継ぎ、終戦5年目に結婚。
妻の名は偶然にも…尊敬する岩本隊長の妻と同じ「和子」だった。
それだけではない、その年に生まれた長男に岩本隊長の養子と同じ「博臣」と名付けた。
だが戦後は、特攻隊時代の思い出を他人に語ることはなくなったという。

時は流れ、戦後70年が経った2015年、1人の男性が佐々木に注目した。
作家、演出家の鴻上尚史さん。
佐々木さんの入院先の病院へ会いに行き、数々の実体験を聞き、本にまとめた。

鴻上さんが佐々木さんと面会した翌年、2016年2月、佐々木さんは92歳でこの世を去った。
激戦地のフィリピンで、敵艦に体当たりする特攻の命を受け、9回出撃しながら、9回生還した、不死身の特攻兵・佐々木友次さん。
彼は、病床で家族に、こう呟いたという…「こんな風に、死んでいくんだなぁ」

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