家族と引き裂かれた人々のため国と闘った男

北海道の最北端・宗谷岬から、北にわずか43kmに位置する島、東京から飛行機を使い、2時間で行ける海外、それが『サハリン』だ。
今から32年前、一人の日本人男性がサハリンを訪れた。
新聞社に勤務する、小川 よう一(おがわ よういち)。
ヨーロッパのような街並みではあるが、ここはかつて『樺太』の名で呼ばれた日本の領土だった。


樺太・大泊町で生を受けた小川は、幸せな少年時代をすごした。
明治末期、日露戦争に勝利した日本は、島の南半分を統治した。
樺太の開拓を国策とかかげ、移住を奨励。
石炭産業や製紙業が栄え、南樺太は40万人の日本人が暮らす豊かな島であった。
小川がそんな樺太で過ごしたのは8歳までのこと。
その後、一家で両親がかつて住んでいた小樽に戻っていた。


すると2年後、太平洋戦争が勃発。
終戦間際の1945年8月、日本を侵略しないと約束していたはずのソ連が樺太に大挙して攻め込んできた。
日本政府は自国民を船で緊急避難させることに。
南樺太が占領された後も、GHQ(連合国軍総司令部)がソ連と協定を結び、4年間に渡り引き揚げが行われた。
だがその後、長い間、一般の渡航は禁止となってしまう。


1980年代後半、社会情勢の変化によって、樺太出身者の故郷訪問事業『平和の船』が始まった。
小川にとって、およそ50年ぶりの故郷。
ソ連当局の監視役が付く旅であったが、景色は変われども、幼い頃の思い出が蘇ってきた。


そんな郷愁が一瞬で消え去ったのは、宿泊するホテルに戻る直前のこと…「日本人の方ですよね?」と、ハッキリと日本語で話しかけられた。
すると…声をかけてきた人たちを警察官が乱暴に追い払った。
小川は、日本人に話しかけられたのかという疑問を、すぐに打ち消した。
戦後の引き上げ事業で日本人はみんな帰国したはず…ここに日本人がいるとは思わなかったのだ。


サハリン最大の都市、ユジノサハリンスクで個人が店を出して賑わうバザール。
翌日、小川がそこを訪れると…またしても日本語で話しかけられた。
引き上げ終了後、長らく渡航が禁止されていた地…日本人がいるはずがないと思っていた小川は驚いた。
声をかけてきた女性は、野呂静江、当時65歳。
彼女はサハリンで生まれ育った日本人だった。
やはり この地に日本人がいたのだ!


静江は17歳の時、日本人の船乗りと結婚。
長男・義昭も生まれたが、幸せな日々は長くは続かなかった。
終戦の1年前に夫は招集され、終戦後も行方不明のままだった。
夫を待ち続け、静江は帰国しなかった。


静江はロシア人に混じり、工場で肉体労働に従事した。
だが、出征から2年たっても、夫の消息は分からず、生存を完全に諦めざるを得なかった。
そんな彼女を、ロシア人の作業長・ワシーリーが、配給の食料を回してくれるなど気遣ってくれた。
誰に対しても優しく面倒見の良い彼に、静江は徐々に惹かれていった。


そして1947年、静江はワシーリーと再婚。
義昭と3人で暮らし、2年が経ったある日のこと…亡くなったと思っていた前の夫から手紙が届いた。
息子を連れて、日本に帰ってこいという。
夫は、シベリアに抑留された後、日本へ帰還していたのだ!


既に日本への『引き上げ事業』は始まっていた。
しかし、このとき静江は、ワシーリーとの子供を身ごもっていた。
悩んだ末、彼女の下した決断は、6歳になる長男を夫の元に帰すことだった。
ロシア人社会で、日本人の息子が生きていくことへの不安も大きかった。


サハリンに残ることを選んだ静江に、ワシーリーは「生まれてくる子供は私が育てる。だから君は日本に帰っても良いんだよ。」と言った。
彼の優しさに甘え、すぐにでも息子の元へ飛んで行きたかったが…お腹を痛めて産んだ娘を残して、自分だけ日本に行く気にはどうしてもなれなかった。
静江は、サハリンの地で新たな家族と生きていくことにしたのだ。


1940年代に引き上げ作業は行われたが、実はその時点で帰れなかった人々はいた。
1950年代には、日ソの国交回復により、朝鮮人など、外国人の配偶者や子を同伴しての帰国が認められ、819人が日本に戻った。
しかし当時は、一度 日本の土を踏んだら、サハリンには二度と戻れない『永久帰国』が前提。
西側諸国の思想や社会情勢などが、自国に入る事を恐れていたソ連は、肉親に会うための一時帰国を許さなかったのだ。
その後、米ソ冷戦が激化。
アメリカの同盟国である日本は、ソ連との交流が閉ざされ、一般の人々の渡航はほぼ不可能な状況となった。


静江の息子が元気でいれば、今年 45歳になるという。
彼女は、せめて死ぬ前に肉親に会いに日本に行きたいと願っていた。
静江によると、サハリンに取り残されたまま帰国できなくなった人々はたくさんいるという。
この頃、ロシア人の夫、ワシーリーが病死したこともあり、静江の祖国日本への思いが溢れ出していた。


サハリンの日本人たちを帰国させたいと、小川は新聞社の人脈を活かし、メディアの力で世間に訴えようとした。
だが、自社はもとより、他社にも掛け合ったが…興味を示してくれる新聞社はなかった。


それでも約束を果たすため、小川はツテを辿って、ある国会議員の事務所にやって来た。
当時、ソ連とパイプがあった社会党の議員であり、北海道が地元の五十嵐広三氏。
だが、サハリンについて知識や活動経験のある議員の事務所ですら、日本人の存在を把握していなかった。
その後、厚生省の担当者に当たってくれたのだが、結果は…『サハリンに日本人がいる』との認識なし、というものだった。


認識がないというなら、その認識を変えさせるしかない。
小川は、翌1989年も『平和の船』でサハリンを訪れた。
そして、依頼した調査の確認に静江の家を訪れた。
すると、彼女の地道な調査により、サハリンに取り残された日本人が300人以上いることが分かった。
小川は、一時帰国を希望している日本人たちと面会をして事情を聞くことにした。


そして滞在最終日、静江たちとの約束の時間…やって来た静江たちはスカーフで顔を隠していた。
彼女たちが顔を隠していたのは、監視しているソ連警察の目をかいくぐるためだった。
ところが、そこに警察がやって来て、集まった在留日本人の方たちを追い返そうとした。
小川は「この人たちは、40年以上会っていない祖国日本の家族を探して欲しいと思っているだけだ。私は彼らの話を聞いて日本の家族を探す手伝いをしたい。」と訴えた。
警察は、小川の熱意に押され、面会を許可した。


こうして、最初のサハリンの残留日本人の調査は、平和の船で知り合った協力者の力も借りて、小川たちの宿泊するホテルで行われることになった。
話を聞くと、事情は様々だが、肉親がどこにいるのか、消息さえわからない人がほとんどだった。


小川はこの時、意気投合した平和の船の参加者たちと『樺太サハリン同胞一時帰国促進の会』を設立した。
その頃、ソ連国内では、ペレストロイカと呼ばれる運動が進み、経済的・社会的な改革にともない、国民の海外渡航制限が緩み始めた絶好機でもあった。


小川は、静江が作成した名簿を持って、厚生省を訪れ、彼らの一時帰国を援助してほしいと願い出た。
すると…厚生省はサハリンに取り残された日本人がいることを把握はしているようだった。
だが、彼らは自ら望んで残った者であり、加えてほとんどが既に外国籍になっているからと、彼らを日本人とみなしていなかった。
厚生省の役人は、彼らのために税金は使えないと言って譲らなかった。
国が何と言おうと、諦めるわけにはいかない。
小川たちは、厚生大臣、外務大臣らに何度も請願書を送りつけ、五十嵐議員にもアプローチを続けた。


一方で小川は、面会した人々の肉親探しも行っていた。
野呂静江の場合、調査の結果、最初の夫は既に亡くなっていた。
だが、6歳で生き別れた息子は、千葉製鉄所で働いている事が判明した。
そこで重要なのが、帰国の際、家族が会ってくれるかどうかの確認だ。
静江の息子、義昭は、自分と父は母に見捨てられたと思っていた。
40年間の隔たりは、あまりにも大きかった。


行き詰まっていた小川のもとに、五十嵐議員から知らせが入った。
5年前、厚生省が密かにサハリンにいる日本人を調査し、作成した未帰還者名簿を入手したという。
それによれば、175名のうち、実に127名までが日本への帰国を希望すると答えていた。
厚生省は都合の悪い結果を隠していた。
小川はこの名簿を持って、厚生省と再び交渉。
そして…ついに政府がソ連との交渉に加え、一時帰国の往復の旅費を援助してくれることになった!


小川の働きかけもあり、当時、脚光を浴びていた中国残留孤児への旅費援助制度を適用できることとなった。
ところが、新たな問題が浮上する。
そもそもこの制度は、永住帰国が前提の中国残留孤児のために作られたものであり、今回のように、一時帰国を目的とした者のための制度ではなかったのだ。
結果、負担してもらえるのは12人分の旅費のみ、滞在費に関しては支給されないことになった。


右も左もわからないサハリンの日本人が、それぞれの親族を訪問する際にも、付添人が必要。
彼らの交通費や宿泊費も含め、すべてを負担するとなると、12人で総額、およそ300万円が足りない計算だった。
そこで、小川や『樺太サハリン同胞一時帰国促進の会』のメンバーたちが資金を出し合い、滞在費を捻出した。


最初に一時帰国させる12人の中には、野呂さんや、近藤さんはもちろん、親の誤解を解くことができず、存在すらも否定され、面会を断られた人もいた。
通常は、日本にいる肉親が身元引受人となって、サハリンの日本人を招待するのだが…そういう人たちは小川たちが身元引き受け人になった。
一時帰国させれば、家族も心変わりして、会ってくれるかもしれないという可能性にかけた。


当時、ソ連から日本に入国するには、唯一の窓口である新潟を使わざるを得なかった。
そこで、一行は空路でハバロフスクを経由、日本へと向かった。
そして運命の出会いから1年と8ヶ月、12人の第一次一時帰国団が新潟空港に到着。
忘れられた日本人が祖国の土を踏んだ。
各テレビ局が昼のトップニュースで扱ったおかけで、問い合わせや取材依頼が殺到した。


小川たちは、面会を拒否していた家族たちにギリギリまで会ってくれるように説得した。
民間のボランティア団体だからできた強みであった。
そして…静江の息子・義昭も、会いに来てくれた。


当初は面会を拒否されていた人もいたが、小川の尽力により、最終的には12人全員が肉親と再開を果たすことができた。
当時、一時帰国の成功は、国会でも取り上げられ、当時の津島雄二厚生大臣はこう発言した。
「帰国者には胸が痛む、改善すべき点は改善を」


活動開始から3年後、小川さんは新聞社を定年退職。
その後も、サハリンからの帰国事業は、ライフワークとして続けた。
生活の全てをサハリンに捧げた小川さんは、今から3年前の7月、天国へ。


現在もサハリン在住の日本人とその親族たちが、一時帰国で日本へとやって来る。
これまで30年間で、のべ3500人以上が訪れた。
彼らは語る…そんな日本とサハリンの絆を繋いだ人物こそ、小川さんであると。


一時帰国を何度か経験したサハリンの日本人の中には、やがて永住帰国に踏み切る者も現れた。
野呂静江さんもその一人だった。
今から23年前に、三女の一家と北海道に永住帰国。
このとき残念ながら、息子さんは病でなくなってしまっていたが…静江さんは、友人もでき、楽しそうに過ごしていたという。
静江さんは、2018年に逝去。
まさに激動の人生だった。
孫の洋子さんは、現在もサハリンから帰国する日本人のために通訳などの支援をする仕事を続けている。


最初の一時帰国のメンバーである、近藤孝子さんは、今から20年前に娘の家族と東京に永住帰国した。
彼女は小川さんが亡くなった今も恩を感じ、サハリンの日本人を帰国させる活動を手伝っている。
サハリンの日本人は、約30年で135世帯305名が永住帰国。
彼らが今もお互いに助け合っているのは、小川さんの献身的な姿勢を知っているからだ。


ユジノサハリンスクにあるサハリン日本人会は、永住帰国する前の静江さんや近藤さんが行っていたサハリンと日本とをつなげる活動を引き継いでいる。
会長の白畑さんは、こう話してくれた。
「小川さん、私たちはあなたが目指した平和の子流をずっと続けています。だから安心してください。」


生前、小川さんは病に苦しむ中、取材を受けた最後の映像でサハリンの日本人に向けてこう語っていた。
「その国に生まれたくて生まれてきたわけじゃねぇんだから、選べるわけじゃないんだから、もう自由のびのびで、世界人になって。もう世界中飛び回れるような人になりなさいと、そう言ってんだけどね。」

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