人間動物園「見せ物」にされた少女

今から25年前、カナダ・モントリオール近郊。
全てのはじまりは、ひとりの若者がある行動を起こしたことがきっかけだった。
若者の母の名は「セシル」。
彼女は、かつて世界中を熱狂させたスーパースター、特別な存在だった。
1930年代様々な広告や商品に起用され、数多くのイベントに出演、その収入は莫大な金額になっていた。


ところが…なぜかこの時、セシルは貧しい暮らしを余儀なくされていた。
息子は、母が受け取るはずだった財産がどこかに消えている…そのお金があれば、母がこんなに苦しまなくても済むと思い、母の子供の頃に何があったのか調べることにした。
すると…カナダ最大の都市トロントのヨーク大学に、セシルに関する政府の財務記録が存在することが判明。
そこには…恐るべき真実が記されていたのだ。


昨年、彼女の人生を取材し、書籍にまとめたジャーナリストのサラさんは…
「人々はとても衝撃を受けました。世界的なスターだったのに、誰も本当のセシルについて知らなかったんです。当時、関係者はみな、彼女に出来る限りのことをしてあげようとしました。しかし、いつしかその善意は、心の奥に眠る欲望によってねじ曲げられてしまったのです。」


今から86年前の1934年5月28日。
カナダのオンタリオ州で農業を営むディオンヌ夫妻は、新たな家族を迎えようとしていた。
夫婦には、すでに5人の子供がいて出産経験も豊富、何の問題もないはずだった。
だが…駆けつけた医師が目にしたのは…5人の赤ちゃんだった。


実は、彼女たちが生まれる以前、五つ子が長く生き延びた例はなく、最長で2ヶ月程度の記録しかなかった。
しかも生まれた際とても小さく、未熟児で一番大きい子ですら1キロに満たなかった。
家の周辺には病院もなく、田舎の医者と助産師がいるだけ…当然長生きしないと考えられた。
さらに、ディオンヌ家は貧しく、電気すら通っていない状態だった。
懸命に生きようとする赤子たちの、か細い命の炎が消えるのは時間の問題に思えた。


そんな中…カナダの田舎町で産まれた奇跡の五つ子の噂を、すぐさま地元新聞の記者が察知。
出産の2時間後には、多くの記者がディオンヌ家に殺到。
この世紀のニュースは、またたくまにカナダから北米、そして世界中へと広がった。


そして、出産に立ち会ったデフォー医師は、小さな命の火を消さないためにメディアを通して支援を呼びかけた。
すると、五つ子の危機を救うべく、生命維持に必要な温水式保育器やミルクが次々に届けられ、看護師など医療スタッフも他の町から治療に駆けつけた。
そして、デフォー医師らが24時間体制で懸命に看護した結果…五つ子は全員、命の危機を脱したのだ!
それは小さな5つの命を守ろうとした人々の純粋な思いが、起こした奇跡だった。


5人の姉妹はイヴォンヌ・アネット・セシル・エミリー・マリーと名付けられ、一躍世間の注目の的となった。
奇跡の五つ子を一目見ようと、毎日、ディオンヌ家には多くの見物客が集まるようになった。


しかし、世間が熱狂する一方で…父親はひとり頭を抱えていた。
五つ子全員が未熟児のため、継続した治療が必要だったのだ。
当時の報道によれば、一週間にかかる医療費は100ドル。
現在の価値に換算すると約20万円必要だった。
しかし、一家の収入は週に約20ドル、5分の1ほどしかなかった。
ディオンヌ夫妻が五つ子を育てていくのは、経済的に到底 不可能だったのだ。


そんな時だった…父のもとに驚くべきオファーが舞い込んだ。
五つ子が産まれる2日前、アメリカ・シカゴで万国博覧会が開幕。
目玉を探していた運営陣は、さっそく この奇跡の子供達に目をつけた。
万博終了までの半年間、出演すれば、約1年間の治療費に相当する5000ドルもの契約金を払うというのだ!
さらに、同行する家族の生活費すべてを運営側が受け持つだけでなく、滞在中の医療ケアまで責任を持って行うという破格の条件だった。


父親は悩んだ末、契約書にサインした。
だが…医療ケアを行うとはいえ、それはあくまでも滞在中のこと、現地に行くには長時間の移動が必要で、未熟児にはリスクが高すぎると母親が猛反対。
父親も思い直し契約を取りやめることにした。


しかし…すでに交わした契約を破棄することはできいと…万博の運営側に脅された。
夫妻は、もはや命のリスクを抱えつつ、五つ子をシカゴに連れていくしかない状況に追い込まれたのだ。
そんな時…思わぬところから救いの手が差し伸べられる。
シカゴ万博との契約でいう出演とは、実際のところ、見世物として展示するというもの。
それを知ったカナダ・オンタリオ州政府が、赤ん坊を見世物にするのは人道的見地から見過ごせないと仲裁に乗り出したのだ。


そのやり方は…州政府が2年の間、五つ子の親権を譲り受けることで、両親と万博の興行主との間で交わされた契約を無効にする、というものだった。
とはいえ、興行主からすれば最初に契約を結んだのは自分たちの方、納得はいかなかった。
しかし、相手は州政府…揉めるのは得策ではないと、万博での展示を諦める決断を下した。


さらに州政府は度重なる交渉の末、赤十字の協力も取り付けた。
それは…赤十字が自らの資金でディオンヌ家からわずか数百メートルのところに病院を建設し、2年間、人件費ほか、治療に関わる全ての費用を負担するという、ディオンヌ夫妻にとっては、まさに至れり尽くせりの内容だった。
こうして、五つ子は政府の尽力もあり、シカゴ万博で見世物にされる心配はなくなった。


だが、無償で治療を受けられるのは、親権を預ける2年間のみ。
そのため、五つ子がディオンヌ家に戻ってきても、生活に困らないよう資金を稼ぐ必要があった。
そこで…夫妻は「奇跡の五つ子の両親」として、アメリカ各都市を回る興行ツアーに出発。
両親は自分たちが見世物になることで、お金を稼ごうとしたのだ。
愛する子供達を育てるために…。


州政府からの提案を受けた半年後のこと…オンタリオ州議会に驚くべき法案が提出された。
それは…州政府が実質的に両親から親権を剥奪、その代わりに政府と後見人が五つ子が18歳になるまで親権を持つというものだった。
その名も『ディオンヌ五つ子後見法』。


なぜ、こんな法案が議会に提出されたのか?
原因はディオンヌ夫妻に対する批判の声の高まりだった。
奇跡の五つ子を産んだ夫婦として、ディオンヌ夫妻は全米各地の都市を回り、少なくない額の謝礼を受け取っていた。
この事実を、世間は両親が我が子を利用して金儲けをしようとしていると受け取ったのだ。


このような親に子供を育てる資格があるのかという世の中の批判を受け、州政府は奇跡の五つ子を保護する必要があると判断。
結果『ディオンヌ五つ子後見法』は、州議会で賛成多数で成立したのだ。
すべては五つ子の人生を守るためだった。


ディオンヌ夫妻は親権を完全に剥奪された。
そして、彼らの代わりに州政府が後見人に指名したのは…出産に立ち会った、あのデフォー医師だった。
州政府は危機的だった五つ子の命を救ったことを評価。
また、彼女達にはまだ継続した治療が必要なこともあり、医師である彼が適任であると判断したのだ。


だが、事実は大きく異なっていた。
出産時、デフォー医師が駆けつけた時には、すでに子供たちは産まれていた上に…家には未熟児に必要な特別な道具など何もなかった。
そのため普通の赤ちゃんに行うようなことしかできなかった。
生き残ったのは単に幸運なだけだったのだ。
しかしそんなことなど知らない世間の人々にとって…デフォーはメディアを通し支援を呼びかけたこともあり、世間は彼こそが奇跡の五つ子を救った命の恩人だと称賛、大きな尊敬を集めていた。
これが、善良な町医者だったデフォーの人生を大きく変える。


後見人に選ばれ、さらに注目度が増したデフォーは、「五つ子を救った奇跡の名医」として自らを演出。
五つ子の誕生から1年後には、大英帝国勲章まで与えられた。
デフォーは五つ子を自らの完全管理下に置いた。
そして、24時間体制で専門医や看護師がケア。
さらに、姉妹の命を守るために、食事や睡眠など日々のスケジュールを分刻みで徹底的に管理。
この万全な体制のもと、五つ子姉妹は順調に成長していった。


そして、その姿は新聞やニュースによって、カナダ国内はもちろん世界中に伝えられた。
すると…デフォーの元にイベントや講演会の依頼が殺到!
巨額の報酬を受け取るようになった彼の心は、徐々に変わっていく。
デフォーはいつしか彼女たちを、利益をもたらす金の卵とみなすようになっていた。


一方、世間の人々は、その愛らしい様子に我が子の姿を重ね合わせ、姉妹の成長を温かい目で見守った。
生後まもなく強欲な両親から引き離されたおかげで、姉妹は幸福な生活を送っている…誰もがそう信じて疑わなかった。
しかし、現実は残酷だった。
彼女たちを待ち受けていたのは、想像を絶する過酷な運命だったのである。


五つ子が産まれる5年前の1929年、未曾有の大恐慌が世界を襲った。
それから、カナダ経済は長らく低迷。
姉妹たちが産まれたオンタリオ州も例外ではなく、極度の財政難に陥っていた。
そんな中、人道的観点から五つ子の保護を決断。
赤十字の支援によって病院を建設、養育にかかる費用の負担も免れてきた。
しかし、それも2年限り…その後も姉妹を育てていくとなると、人件費や病院の維持費など、かなりの出費を覚悟しなければならない。
その費用をどうやって捻出すればいいのか?


限られた時間の中、州政府が目をつけたのが…順調に成長するこの五つ子自身だった!
その人気は誕生以来、加熱する一方。
生後4ヶ月を迎える頃、病院が完成。
その直後から五つ子をひと目見ようと多くの人が訪れ、周囲を取り囲んだ。
見られなかった人の中には、病院建設の際に余った瓦礫を持ち帰る人もいたという。


その人気がますます高まっていく中、五つ子を確実に見られる場所があったら もっと多くの人が街を訪れるのではないか?
観光客が増えれば、街に莫大な金が落ちる。
さらに、今まで以上にガソリン税の徴収も見込め、そのお金を姉妹の養育費用に充てる事ができる。
そう考えた オンタリオ州の首相は…赤十字の支援が切れる年、子どもたちの遊び場を造成。
その周囲を取り囲むように長い通路を作った。
訪れた観光客が、この通路に設置されたのぞき窓から、五つ子の様子を眺められるようにするためである。


こうして建設されたのが、クイントランド。
それはさながら五つ子を観察するための施設、いわば人間動物園だった。
州政府の目論見どおり、クイントランドのオープンと同時にそれまで以上に観光客が殺到した。
一日に2回、30分間。
少女たちは大勢の見物人が見つめる中、遊び場に出ては看護師の指示で踊ったり遊具で遊んだりした。


観光客は、時が経つにつれ増加。
カナダ国内はもちろん、アメリカなど他国からも押し寄せた。
街には土産物屋やホテルが乱立、何もなかった田舎町はすさまじい勢いで活気づいていった。
いつしか観光客は多い時で1日6000人、ナイアガラの滝を抑え、カナダで一番の観光地となったのだ。


その人気はとどまることを知らず、姉妹は 様々な商品の広告キャラクターとしても起用され、商品は飛ぶように売れた。
最盛期には、オンタリオ州に現在の価値で、年間約500億円もの経済効果をもたらしたという。
ディオンヌ家の五つ子姉妹は、もはや世界的な社会現象となっていた。


だが、その一方で…実の両親が懇願しても、州政府は法律を盾に、我が子に会うことを滅多に許さなかった。
そのため…夫婦は我が子の日々の成長を、メディアを通じて知るほかなかったのである。


1939年、第二次世界大戦が勃発。
カナダも参戦し、クイントランドを訪れる観光客が徐々に減っていった。
そして、開戦から4年後(1943年)、後見人としてすべてを取り仕切っていたデフォーが肺炎を患い急逝。
両親はことあるごとに…メディアを使って、子供たちに会えない辛さを訴えていた。
すると…両親への同情が集まる一方…クイントランドを運営するオンタリオ州政府に対する批判が高まっていった。
州政府も世論の声を無視できなくなった。


こうして「ディオンヌ五つ子後見法」は州議会で廃止に…その結果、姉妹は9歳にして、ようやく両親のもとに帰されることになった。
9年もの間、クイントランドで『見世物』にされ続けた少女たち。
この間、外出できたのは、わずかに1回のみ。
カナダを来訪していたイギリスの国王に謁見するため、トロントへ行ったのが最初で最後だった。
5人の少女は、全く外の世界を知らずに過ごした。
しかし、その生活も終わりをつげ…五つ子たちは両親の元に戻り、幸福な時が訪れる…はずだった。


夫妻は、家族と早く馴染めるようにと、五つ子を一人ひとり、他の姉妹と同じ部屋にした。
だが、他の姉妹たちは五つ子に冷たかった。
突然、一家に加わった彼女達は、他の兄弟にとって赤の他人同様、ただの『異物』にすぎなかったのだ。
くわえて、言葉の問題もあった。
家族はカナダの公用語の一つである、英語で会話していた。
ところが、クイントランドでは、もう一つの公用語であるフランス語を使用していたため、コミュニュケーションがうまくとれなかった。


さらに、クイントランドではやったこともなかった様々な家事や、家業である農作業の手伝いなど…毎日、慣れない仕事を必死にこなさなければならなかった。
そんな彼女達が頼れるのは…我が子が戻る日を待ち望んでいた両親だけのはずだった。
だが…五つ子にとって最大の敵、それは、他ならぬ実の両親だったのだ!
初めは純粋に我が子が戻ってくることを心から願っていた。
しかし…生みの親であるという知名度を活かし、観光客相手に2つの土産物屋を出店、お金を稼ぐようになると…さらなる欲望が生まれた。


実は「ディオンヌ五つ子後見法」には…五つ子が将来得る金銭的収入を、政府が保護するという条項があった。
彼女たちを商業利用しようとする大人から守るというのがその理由だった。
そのため、両親は娘たちがメディアに出ても、出演料などを受け取ることはできなかった。
だが、法律が廃止となり、親権が戻ったことで、娘が稼いだお金を両親が自由に使えるようになったのだ!
9年という長い年月は、実の親ですら…金の亡者に変えてしまった!


家に戻った五つ子たちに対して、両親は愛情を注ぐどころか…恐怖で支配することで、自分たちのいいなりになるよう仕向けていたのだ!
クイントランドから戻っても、奇跡の五つ子は未だ世界の注目の的。
両親に言われるがまま、さまざまなイベントに駆り出されると、相変わらずお揃いの服を着て、見世物にされ続けた。


クイントランドは、五つ子がいなくなった後、姉妹だけでなく、他の生徒も通える私立学校として改修された。
両親は自分たちに都合の悪いことを吹き込まれるのを防ぐべく、他人が近づかないよう監視。
姉妹は、悩みを打ち明ける友人を作ることさえできなかった。
その苦しみを…その哀しみを理解し共感できるのは…世界中で彼女たち5人だけだった。
5人はその絆をますます深めながら成長していった。


後見法成立と同時に、政府は彼女たちの収入を保護するため信託基金を設立していた。
法律は廃止されたものの、それまで彼女たちが得た収入は政府により、当時のカナダの成人に当たる21歳まで継続して保護されていた。
報道などから…姉妹は信託基金があり、21歳になれば そこから自由にお金を引き出せるようになることを知っていた。
それは、これまで彼女たちを利用してきた多くの大人から、完全に自由になれる日が来ることを意味していた。


それぞれの夢を胸に抱き、彼女たちはその瞬間を待ちながら過ごした。
そして18歳を迎えた夏…姉妹は高校を卒業。
これを機に実家を離れ、5人は一緒に暮らしながらモントリオールの大学に通った。
規律が厳しい大学ということもあり、両親も進学に反対はしなかった。
相変わらず、イベントに駆り出されては、世間の好奇の目に晒されることはあったが…ようやく自由な時間が増えたのだ。


しかし、そのわずか2年後、悲劇は起こった。
四女エミリーが、突然 死去したのだ。
死因は、てんかんの発作を起因とする窒息死だった。
実は、エミリーはディオンヌ家に戻ってからほどなく、てんかんを発症。
しかし…両親は、五つ子を人前に出せなくなることを恐れ、エミリーに治療を受けさせようせず、症状は悪化していたという。


その死は、遺された4人にとって、まさに体の一部をもぎ取られたような衝撃だった。
だが、その一方で…皮肉にもエミリーの死が姉妹に自由をもたらすことになった。
4人になってしまった姉妹から、世間は急激に興味を失っていったのだ。


そして、エミリーの死から1年後、21歳の誕生日を迎えた。
ついに信託基金を手に、自由に人生を生きられる時が来たのだ!
そこには80万ドル、現在の価値で約8億円という、とんでもない額が記されていた!
4人で分けると、1人あたり2億円。
新たな人生をスタートさせるには、十分過ぎる額だった。


これを元に、長女イヴォンヌと三女セシルは看護師を目指し、看護学校へ。
次女アネットと五女マリーは、同じ大学の寄宿舎に入った。
この頃になると、両親も娘の人生に口を出すことはなくなっていた。
だが…世間から隔離され、見世物として育てられた彼女たちにとって…普通の人生を生きることは、想像以上に難しかった。


希望どおり看護師になった三女セシルは23歳で結婚。
双子の男の子を含む5人の子に恵まれ、幸せな家庭を築いているかに思われた。
だが、妻の信託基金をあてにしていた夫が、まったく働かず、家計はたちまち困窮。
さらに、子供の1人が小児がんにかかり、わずか1歳で亡くなってしまったのだ。
その後、夫婦関係は完全に崩壊。
結婚から7年、セシルは離婚した。


エミリーの死に最もショックをうけていた五女マリーは、姉妹の励ましもあり信託基金を元手に夢だった生花店を開店。
だが…計算が苦手な上に、売り物をすぐ人にあげてしまい、わずか1年で閉店。
それでも、24歳で結婚、2人の娘を授かりようやく幸福を手にしたかに思えた。
だが、料理など家事がうまくできなかったうえに…エミリーを失ったショックが癒えず、いつしか 酒に溺れ家事を放棄するように。
結果、結婚から8年で別居。


そして…ある日、突然 死亡した。
死因は血栓症と診断された。
だが…彼女はひどいうつ病に悩んでいたことから、自殺を図ったと考える人たちもいたという。
まだ35歳、早すぎる死だった。


次女アネットも結婚から16年後に離婚。
長女イヴォンヌは、人との交流が苦手で職場と家を往復する生活。
彼女たちが、心を開き、話をできる相手は、姉妹だけだった。


マリーの死の9年後、父親が…そして、その7年後には母親が他界。
残る イヴォンヌ・アネット・セシルの3人は、60歳を迎えた頃、約40年ぶりに同居を開始。
信託基金はインフレで、受け取った1955年と比べると、その価値は5分の1程度になっていた。


しかし…今から25年前、姉妹の運命の歯車は、再び回り始めることになる。
セシルの息子が母たちの過去について調べたところ…広告やテレビなどへの出演料など五つ子が得た収入は少なく見積もっても200万ドル。
現在の価値で約20億円以上あったと判明。
それは4人が受け取った8億円よりも、遥かに多い額だった。


何か裏があるはずだと、息子が調査を開始。
すると…首都トロントのヨーク大学に、オンタリオ州の財務記録が存在することが判明。
その記録には…恐るべき事実が記されていた。


実は「ディオンヌ家五つ子後見法」には、子供たちの成長に必要と州政府や大臣が認めれば、信託基金からお金を引き出すことができると定められていたのだが…両親はこの法律を利用し、五つ子が戻ってくる時期に合わせ、自宅のほど近くにディオンヌ家15人が暮らすための豪邸を建設していたのだ。
また…看護師たちが使うテニスコートの建設費やその維持費、さらに 基金を管轄する立場のオンタリオ州政府も…クイントランド周辺のトイレや展望台といった、公共施設の建設費用などに基金を利用していた。


さらに、明らかに不正利用されたケースも存在した。
両親は豪邸の建設だけでなく、養育費という名目で年間約5000万円もの高額を請求することもあり、贅沢の限りを尽くしていた。
さらに州政府は、カナダが戦争に参戦した際、五つ子に無断で基金から戦争の費用を捻出。
他にも政府の役員が必要以上の飲食代などを経費として請求、信託基金をまるで我が物のように使い込んでいた事実もあった。
こうして約120万ドル、現在の価値で12億円以上もの大金が消えたのだ!


イヴォンヌ、アネット、セシルの3人は、損害賠償を求めオンタリオ州政府を提訴。
一方、息子はテレビ局に、五つ子姉妹のドラマやドキュメンタリーの制作を依頼、世論を動かそうとした。


そして…ついにオンタリオ州の首相が…五つ子姉妹に対して公式に謝罪を表明。
賠償金約3億円を払うことで和解したのだ。
賠償金はこの3人と、マリーの遺族に平等に分け与えられ…弁護士費用をのぞき一人約7000万円を勝ち取った。


和解から3年後、イヴォンヌはガンでこの世を去り、五つ子はついにアネットとセシル、2人だけになった。
アネットは和解で得た賠償金を子供たちに分け与え、一人暮らしを始めた。
セシルは息子と共同名義で家を購入。
我が子と共に穏やかな日々を過ごしていた。


その後、息子の勧めでセシルは老人ホームに入ることになった。
ところが、セシルが老人ホームに移ってから6年後のある日…息子が突如、姿を消したのだ!
息子の行方は未だ分からず、共同名義の家もセシルになんの相談もなく売却していたことから、お金を持ち逃げして失踪したと思われた。
赤ちゃんの頃からその人生を見世物にされ、もたらす大金に目が眩んだ多くの大人たちに自由を奪われ、利用されてきた『奇跡の五つ子姉妹』。
その哀しい運命は、晩年を迎えてなお、彼女たちを縛り続けていたのだ。
セシルはその後、アネットの援助で質素なケアハウスに移り、姉に生活費の一部を援助してもらいながら、暮らしている。


アネットさんとセシルさんは現在86歳。
今回、セシルさんは体調を崩し入院中で、インタビューは叶わなかったが、アネットさんが、インタビューに応じてくれた。
「私たち姉妹を利用した人々には、私たちがどうなるかという想像力が足りていませんでした。彼らに悪意はなく、私たちにとって最良の方法だと考えた末に選んだ行動だったんだと思います。それは、間違いなく私の人生に影響を及ぼしました。でも過去にとらわれるのは人生を歩むことの助けにはなりません。時には忘れて、許すことも必要です。私は、自分が生きた86年を否定したくありません。未来を見据えて幸せに生きて行きたい思っています。」


五つ子が生まれた家は博物館になっていたのだが、訪問客が年々減っていき、5年前に一時閉鎖。
そして3年前に運営を打ち切ることが発表された。
この話が持ち上がったことで、アネッテとセシルが抗議のため約20年ぶりにメディア出演した。
自分たちのような悲劇を二度と繰り返さないために、カナダの歴史の一部として博物館を残すべきだと、2人は立ち上がったのだ。


その結果、博物館は場所を移すことにはなったものの、運営され続けることになった。
そして、現在も多くの人が訪れている。
その入り口付近には、彼女たちのこんな思いが刻まれている。
「いかなる子供も大いなる魂の所有物であるため、彼らは大人になるまで傷つけられるべきではない。」


さらに一昨年、当時の環境大臣が五つ子の誕生を、「国の歴史上、重要な意味を持つ出来事」として認定。
これにより「ディオンヌ家の五つ子」は、名実ともにカナダ政府公認となった。


そして昨年、サラさんは「ディオンヌ五つ子の奇跡と悲劇」を出版。
多くの人の思いによって、再び 奇跡の五つ子に起こった真実の出来事を語り継ごうという機運が高まっている。


一方で、アネットさんとセシルさんは、「キッズ・ヘルプ・フォン」という、虐待を受けた子供たちからの電話相談に応じる団体を支援している。
そこには、2人のある願いが込められている。
アネットさんは、こう話してくれた。
「子供の頃どう育ったかが人間にとって大事なことです。子供は、愛情を注がれて育つべきなのです。そして、知って欲しいのです私たちも普通の人間で、愛情を注がれたかったのだと…」


86歳となったアネットさん…セシルさんが病気になってからは、あまり彼女に会えていないのだという。
「奇跡の五つ子」として長年苦楽をともにしてきた2人。
アネットさんは今、妹のセシルさんに何を思うのだろうか?
「今は、話すことはそんなにできません。でもセシルのことはいつも考えています。彼女にはより良い人生を送って、もっと幸せになって欲しいんです。そうなるように私は祈っています。」


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