負けてたまるかSP

負けてたまるかSP


『重症の犬と獣医師』
今年4月、フロリダ州ブレーデントン。
獣医のアリーの元に…生後13週のビットブルが緊急搬送された。
その犬は、口と瞼が微かに動くのみで、身体全体が硬直している状態だった。
コロナ禍のため、自宅で待つ飼い主に電話で、「この子は『破傷風』を患ったと思われます。」と伝えた。
『破傷風』とは、感染症の一種。
傷口などから菌が入り込み、筋肉が硬直し、痙攣が起きる。
重症化すると、死に至る場合もある。


この犬もかなりの重症だった。
通常は複数人による24時間体制の治療が必要である。
費用は日本円で100万円以上。
それでも生存確率は30%程度。
飼い主に金銭的な余裕はなかった。
さらに、命を取り留めたとしても、後遺症が残ってしまった場合のことを考え、安楽死を望んでいた。


そこでアリーは、その日のうちに飼い主から犬を譲り受けることにした。
この犬の名は、バニー。
犬が破傷風を患うのは、ごく稀なケース。
だが、羅漢した場合、発症から5日程度で死に至る可能性が高いと言われている。
それでも、アリーは諦めず闘うことを決意した。
日中、動物病院で働く間は、在宅勤務をしていた夫のマットに面倒を頼んだが、昼休みには必ず自宅に戻り、自ら世話を行う。
そして、仕事が終わった後も、夜遅くまで看病をするという日々が始まった。
睡眠時間は2時間程度、それでも彼女は、毎日、硬直した身体を伸ばしてマッサージをしてあげたり…温熱治療としてお風呂に入れてあげたりするなど、硬直を緩和し、血流をよくするための治療を行なった。
その結果、デッドラインと言われている5日目を乗り切ることが出来た。


しかし、体の硬直はなかなか治らない。
それでもアリーは諦めず、毎日、愛情を込めてバニーを撫で続けた。
すると…7日目、アリーが撫でていると、尻尾をふるようになった!
治療10日目には…後ろ足が少しずつ曲がるようになった。
それを受け、歩行の練習を始めてみたが…まだ自力で立つことは出来ない。
しかし、めげずに治療を続けていくと…治療18日目には、何と自分の力だけで立ち上がり、アリーを出迎えようとした!
こうして、アリーの深い愛情によって、少しずつバニーに変化が現れていった。
そして、治療開始から3週間後…ぎこちないながらも、尻尾を振りながら、アリーに向かって歩いている!
しかし、犬の破傷風は後遺症が残る可能性が高い…治療開始から8ヶ月、現在のバニーの姿は…元気に走り回り、飛び跳ねている!
後遺症が残ることなく、完全復活したのだ!
現在もアリーとバニーは共に幸せな日々を送っている。


『身近に潜む恐怖!突然の命の危機』
イギリス・コベラックで、愛する妻と三人の子供と暮らすアダム。
人一倍 子煩悩、常に家族を大切にする良き父だった。
職業は消防士、休日もトレーニングを欠かさず、筋力をキープ。
さらに、栄養管理された食事で体調を整える日々。
しかし、彼は突如、命の危機に直面することになる…我々の身近に潜む、ある脅威によって。


アダムは突然、頭痛と倦怠感、38度の高熱に襲われた。
その数日後には、足の裏に不気味な黒い斑点が出現。
太ももが痙攣し、経験したことのない激痛が走った。


アダムは、細菌が心臓で繁殖し炎症を起こす、感染症心内膜症を発症していた。
感染症心内膜症とは、何らかの原因で体内に入り込んだ細菌が血液を経由して心臓に到達。
そこで病巣を作ることで、心臓の機能を阻害することもある恐るべき感染症だ。
さらに、心臓にできた病巣の塊が全身に送り出されると、血管に詰まり、激しい痛みや壊死を引き起こすこともある。
足の裏の黒い斑点は、壊死の前兆だった。


大きな怪我などもせず、健康にも気を使っていたアダム、いつ細菌が侵入したのか?
症状を見た医師によると、きっかけとして考えられるのは、ポップコーンだという。
ポップコーンの固い欠片が、左の奥歯の間に挟まった。
3日経っても取れず、つい必死になるうちに歯茎を傷つけてしまし、その傷口から細菌が侵入した可能性が高いという。


侵入したのは、黄色ブドウ球菌。
誰の口にもいる、いわゆる常在菌である。
通常、この菌は少量であれば、血液内に侵入しても問題は起こらない。
だが、3日間に渡り、何度も歯茎を傷つけてしまったことで、細菌がどんどん侵入してしまったのだ。
手術をしても確実に助かるとは限らない。
病気とは無縁で、落ち込む姿など見せたこともなかったアダムの動揺を、妻・ヘレン、そして三人の子供たちも感じ取っていた。
特に末っ子のジョージは、父親が家にいないことをとても寂しがり、不安な気持ちになっていたという。
果たして、アダムの運命は…
手術は無事成功!
12時間にも及ぶ手術を耐え抜き、見事に生還を果たした。
退院後、ジョージは戻ってきた父に抱きついた。
そして、現在は消防士として現場に戻り、市民のために活躍している。
そんなアダムは言う…「もう二度とポップコーンは食べない」と。


『野球少年の夢! 父と息子の闘い全記録』
ある野球少年が起こした小さな奇跡。
始まりは今から7年前…小学3年生になる息子が野球をやりたいと言い出した。
しかし、父・尚孝さんにはある不安があった。
息子の知隼(ちはや)君は、体を動かすのが器用ではなく、ブランコに乗せても、ブランコが上手く焦げなかったのだ。


それでも、尚孝さんは息子の思いを尊重、知隼くんは少年野球チームに入った。
だが、予想通り、知隼くんは投げるのも打つのもひどい状態だったという。
尚孝さんも学生時代、サッカーをしていた。
補欠でベンチにいる悔しさは、良くわかっていた。
「同じ思いはさせたくない」…そう思った尚孝さんは、レギュラーを目指し、毎朝6時から7時の1時間、一緒に朝練をすることにしたのだ。


日々の練習が実り、中学3年生でついにレギュラーを獲得。
そんな知隼くんは、ずっとある夢を抱いていた。
それは…ホームランを打つこと。
中学生の軟式野球でホームランとされる飛距離は、90メートル以上。
知隼くんの学校の場合、校舎の3階以上に当たると90メートルに相当し、ホームランに認定されるという。


迎えた中学最後の大会。
尚孝さんも撮影しながら試合の行方を見守った。
知隼くんのチームは順調に勝ち上がっていった。
そして、自身の学校で迎えた一戦。
1点をリードされたまま6回の表まで進み、知隼くんの3回目の打席が回ってきた。
中学野球の試合は7回までのルールのため、このまま点が入らず負けてしまった場合、中学校生活、最後の打席になる。
初球は、見送りストライク。
そして、迎えた2球目…知隼くんの打球は、なんと校舎の3階に直撃!
それは、完璧な同点ホームランだった。
しかしその後、チームは最終回で逆転負けし、知隼くんの中学野球は幕を閉じた。
だが、自分に負けずに努力した結果、中学校生活最後の打席でホームランを打った。


尚孝さんは、こう話してくれた。
「結果じゃないと思うんですよね。試合で打てる打てないではなくて、本当に伝えたかったのは『一生懸命やること』。一生懸命何かをやり続けようよっていうのを、息子にはずっと言っていた。たまたまホームラン打ったからいい話になっているけど、本当に大事なのは一生懸命何かをずっとやることを子供には伝えたかった。」


今回、知隼くんにも取材を申し込んだが、テレビに出るのは恥ずかしいということで、手紙を送ってくれた。
そこには、家族への感謝と共にこう綴られていた。
「父親からよく言われました。一生懸命続けた先にはいつもと違う景色がある。一生懸命にやった人しか見ることのできないその景色を見て欲しいと。野球は今でも続けています。動画の中の自分に負けないように、これからも頑張ります。」


『天才ピアニストの壮絶人生』
ブラジルの国歌が今から4年前、リオ・パラリンピックの開会式で、あるピアニストの手により、美しく生まれ変わった。
ジョアン・カルロス・マルティンス、ブラジルの国民的スターである彼は、この演奏で世界中を魅了した。
その裏には、一人の天才ピアニストの壮絶にして『あっぱれ』な人生があった。


今から80年前、ブラジル・サンパウロで生まれたジョアンは…幼少の頃、首に悪性腫瘍が見つかった。
学校に行くこともままならず、家に引きこもる生活…そんなジョアンを心配した父親は、ピアノをプレゼントした。
すると…瞬く間に才能が開花。
半年後には、ブラジル国内で行われたピアノコンクールで優勝。
将来最も期待されるピアニストとして注目を浴びると、13歳でプロデビュー。
1秒間に21もの音を奏でる世界トップクラスの技術と、原曲を独自の解釈で抒情的な現代音楽に昇華させるオリジナリティを併せ持つと称された。


20歳を迎える頃には、アメリカ・ワシントンで行われた音楽フェスティバルで演奏。
すると、その場にいた当時の大統領夫人が絶賛。
音楽の殿堂、カーネギーホールで演奏して欲しいとオファーしたのだ。
ブラジルから来た天才ピアニストとして、評判が評判を呼び、チケットはソールドアウト。
スタンディングオベーションは8分間も鳴り止まなかった。
その後、ニューヨークに拠点を移したジョアン、飛ぶ鳥を落とす勢いで世界中を回り、年間500回ものコンサートを開催した。


だが…アメリカに遠征に来ていた母国ブラジルのサッカーチームの練習に軽い気持ちで参加した時のこと。
倒れた拍子に右肘を強打!
神経を損傷し、右手の指三本が曲がったまま思うように伸びなくなってしまった。
その後、曲がった指を強制的に伸ばすため、補助具をつけ、痛みに耐えながらコンサートを続けたが…評論家から次々に辛辣な言葉を浴びせられ、ジョアンは表舞台から姿を消した。


その後、ブラジルに戻ると、銀行業や建設業、ボクシングのプロモーターなど、職業を転々とした。
ピアノをやめて3年が経っていた、そんなある日のこと…それは、ジョアン自らもプロモートに関わったボクシングの元チャンピオンが、37歳にして王座に返り咲いた試合だった。
ジョアンは、その試合を見て、自分も負けてたまるかと思った。
そして自分は何をしているのだろうと自問した。
3年の月日が、指の状態を少しずつ回復させていたのだ。


久しぶりのピアノは、始めた頃の音を奏でる楽しさを思い出させた。
すると…部屋から漏れてきた演奏に惹かれ、近所の住民たちが訪れ、もっとピアノを弾いて欲しいと言ったのだ。


ピアノを再開して5年、ジョアンはカーネギーホールでの復活コンサートを決意。
しかし、コンサート当日、今更 自分の音楽に期待するファンなどいるのか…ジョアンは不安に苛まれていた。
だが、ジョアンの不安を吹き飛ばすかのように会場には満員の観客が待っていた。
こうして、完全復活を遂げたジョアン、精力的にコンサートを開催し、充実した日々を送っていた。


だが…ある日、強盗に襲われたのだ!
なんとか一命を取り留めたが…右手の指が思うように動かなくなっていた。
原因は、頭部を打たれたことによる神経麻痺だった。
せっかく完治した右手の指が、今度は5本とも思うように動かなくなってしまったのだ!


それから3年後…ステージで演奏するジョアンの姿が!
両手で弾く曲をアレンジして、今度は左手だけでピアノを弾き始めたのだ!


その後、左手のみの演奏に磨きをかけたジョアン。
世界ツアーを開催し、左手だけのアルバムも発表した。
だが、今から18年前のある日、三度、悪夢がジョアンを襲う。
局所性ジストニア…筋肉が緊張し、体の一部がうまく動かなくなる神経疾患。
ジョアンの場合、左手を酷使しすぎた結果、指が動かなくなったと考えられた。
明確な治療法はなく、症状は一向に改善しなかった。
両手の指がほとんど動かない状態では、ピアニストとしての活動は、今度こそ不可能だった。


その後 ジョアンは、音楽的才能を買われ、指揮者に転身。
楽譜をめくることができないため、楽曲の全てのパートを暗記し、再び賞賛を浴びた。
そんなジョアンにアンビリバボーな依頼が舞い込む。
それが冒頭で紹介したリオ・パラリンピックの開会式の模様。
なんと、右手は親指のみ、左手は親指と人差し指だけで弾いている。
実は、左手の2本の指は、23回にも及ぶ手術により、かろうじて動くようになっていた。
早く弾けないデメリットを逆手にとって、本来はアップテンポなブラジル国歌をスローテンポで抒情的なアレンジで演奏。
世界中を感動の渦に巻き込んだ。
その後、小さな舞台では演奏していたが、大舞台での復活は難しく、昨年2月、ピアニストとしては完全に引退した。


引退から5ヶ月、ジョアンの元にコスタという人物が訪ねてきた。
実は彼は、自動車関連の製品などを手がけてきた工業デザイナーだった。
ジョアンのドキュメンタリーを見て感動し、もう一度、ピアノを弾いて欲しいと、あるものの制作を申し出た。


それが…このグローブ。
装着するだけで、カーボンファイバーが曲がった指を強制的に伸ばす。
内側に曲がったジョアンの指、第二、第三関節が大きく曲がっていたため、そこを重点的に伸ばすことが目的だ。
今では、手が萎縮して困っている人のために販売もされている。
値段はおよそ17000円と安価。


クリスマスに合わせ、ジョアンの元にグローブが届けられた。
およそ20年ぶりに両手でピアノを演奏することができたのだ!


ジョアンさんはこう話してくれた。
「両手で弾けた瞬間、楽園の扉が開いたような気持ちでした。コスタのおかげでまた夢を追いかけることができます。」

コスタさんは…
「あまりにも演奏が素晴らしくて、自分がグローブを作ったことなんて忘れてしまいましたよ。今になって思うんですが、本当に作ってよかった。」


今ではテンポの速い曲も見事に弾きこなしている。
来年には、あのカーネギーホールで復活ライブが決定している。
ジョアンさんは、こう話してくれた。
「あと20年生きられれば、昔のように弾ける日がきっと来ると思います。人生は希望でいっぱいです。」


ブラジルの国民的スター、不屈のピアニスト、ジョアン・カルロス・マルティンス。
80歳にして、今も世界的に活躍する彼、多忙を極め、各国からの取材オファーにも全て応えられるわけではないという。
だが今回、番組のオファーに対し…
『日本メディアの取材は受けたことがなく、かつ、いつか日本で演奏会もしてみたい』という思いから、練習の合間をぬって、取材を引き受けてくれた。
現在彼は、奥さんと愛犬セバスチャンと共に暮らしている。
ほぼ全ての時間、あのグローブをつけているという。


カーネギーホールで復活コンサートを予定しているだけでなく、現在もブラジル国内でたくさんのコンサートを行っているジョアンさん。
指揮者としても、ピアニストとしても、精力的に活動を続けている。
コスタさんとの交流は今でも続いており、コンサートにも招待している。
ジョアンさんの取材がある時には、コスタさんもかけつけ、同席することもあるという。


最後に、ジョアンさんからメッセージをいただいた。
「日本のみなさん、この老いた私のように みなさんも夢に向かって走っていることと思います。その夢は予想もしなかった時に夢の方からあなたの元へやってくるでしょう。夢は追いかけた分、近づいてくるんです。これから弾く曲は『夢』を意味する曲です。聴いてください。」
そして、ピアノを演奏してくれた。


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